タワマンノベル、実家編

「たかし君は正月は来れないのかい?中学受験ってのはよく分からんけど、小学生からそんなに勉強する必要があんのかねぇ…」。老いた母の背中は記憶の中のそれよりずっと小さく、皺だらけの肌は干し柿を思わせた。「何言ってんの、東京じゃ当たり前よ!」動揺を隠そうと、つい口調がキツくなる。


群馬県渋川市。「頭文字D」の舞台であることを除けば、何の変哲もない田舎町だ。標高500メートルに位置する実家からの風景は、家を出た27年前と何も変わらない。同じ標高でありながら、刻々と変化するタワマン最上階の我が家からの景色とは別世界だ。同じなのは、気圧でご飯がうまく炊けないことだけ。


山の気候は厳しく、秋だというのに、アルミサッシ単板ガラスの木造平家建は芯から冷える。樹脂サッシLow-E複層ガラスの我が家とは大違いで、モンクレールのダウンジャケット(2021年秋冬新作モデル)を着ても肌寒い。「母さん、いい加減、ここを出て施設に入ったら?」またつい、口調がキツくなる。


「嫌だよ、私は畳の上で死にたいね。タワマンだかなんだか知らんけど、人は土から離れては生きられんよ」。ムスカに反論するシータのように、毅然とした口調で母は語る。父が亡くなり10年。自分以外、もう誰も残っていない家を守ろうとする母の姿は、主なき後もラピュタを守護するロボット兵のようだ。


中高生の頃、昭和から時が止まったような地元が死ぬほど嫌いだった。高校を卒業し、信金か役所で数年勤め、職場で結婚相手を見つけて寿退職。子供を2、3人産み育て、気がつけば一日中テレビを見続ける祖母のようになるーー。そんな将来を受け入れることができず、父と大喧嘩の末、18歳で家を飛び出た。


「持たざる側」である私が国立大医学部卒で開業医の後継ぎである夫と出会えたのも、西麻布の会員制バーがある東京という街だったからだ。へそくりから短大への進学費用を出してくれた母には足を向けて眠れない。だからこそ、こんな所でただ死を待つのではなく、もっと余生を豊かに過ごしてほしかった。


「気持ちは嬉しいけど、こうしてたまに顔を見せてくれるだけで十分だよ。それよりアンタ、無理してないかい?都会は最近、親ガチャとやらが酷いんだろ?宮根さんも坂上さんもそう言ってたよ」暇を持て余した地方の高齢者の情報源は95%がワイドショーだ。余計なことを吹き込まないでほしい。


親ガチャ。その言葉を聞くたびに6年前を思い出す。「慶應幼稚舎暁星小学校、両方落ちるなんて。勿論、たかし君は悪くないんでしょうけど…」義母がため息をつく。元麻布のジャック幼児研究所では、合格確実と言われていた。「原因があるとすれば、母親のせい」。義母の視線は、暗にそう伝えていた。


家はタワマン最上階、息子のたかしはSAPIXαクラスで筑駒開成合格圏内。開業医の旦那と何不自由ない暮らし…これが必死に作り上げた虚像であることは私が一番知っている。たかしが将来医者になれなければ、義母に何と言われるか。ストレスで、いつしかママ友にマウンティングをとるようになっていた。


もちろん、母に弱音は吐けない。「たかしの受験が終わったら、今度は一緒に来るよ」そう言い残し、駅に向かう。山々が色付き始めていた。あの頃、退屈で死ぬほど嫌いだったはずの景色だが、今となっては味わい深く感じる。タワマン最上階の強烈な紫外線で鼓膜が弱ったのだろうか、視界が涙で滲んだ。


高崎駅で新幹線に乗り換える。太陽は関東平野の果てに沈み、暗闇のさいたまを切り裂くようにE4系MAXときが飛ばしていく。「MAXときのラストランが見たい!」とねだるたかしに、「そんなことより勉強!」と叱った私は母親失格かもしれない。でも、東京で生きていくと決めたんだ、もう後戻りはできない。


東京駅に着き、峠の釜飯の空き容器をゴミ箱にぶち込んだ時には感傷的な気分は霧散し、いつもの自分だった。「運転手さん、豊洲まで」。タクシーの窓から夜景の光が流れ、タワマン群が迫ってくる。スタンフォードの夫がなんだ、負ける訳にはいかない。「大丈夫、大丈夫」、秘密の言葉をそっと呟く(完

しまった、今読み返したけど紫外線で傷つくのは鼓膜じゃない、網膜だ!たわわママへの対抗意識だけで一気に書き上げたが、やはり粗いな…。


ちなみに連続Twitter小説「タワーマンションは黄昏て」前作はこちら

「あなた、SAPIXのことなんだけど…」帰宅すると、妻が暗い顔をしてテーブルに座っていた。なんだ、夏期講習と8月分の月謝、しめて30万円はもう払っただろう。こっちは障害を起こした職場のITシステムの要件定義書紛失が発覚して大変なんだ…喉まで出かかった言葉は、妻の深刻な表情で引っ込んだ。

前前作はこちら。改めて読み返したが、俺はどこを目指して何をやってるんだ…。

「あら、お買い物?」しまった、今一番会いたくない人間に会ってしまった。ダイエーの買い物袋をさりげなく隠そうとしたが、時すでに遅し。タワマン高層階の住民、たかしくんママ(45)はニヤリと笑った。「ダイエーね、安くて品揃えも良いわよね」。手には高級スーパーAOKIの紙袋が見える。