メディアと「記録」への情熱

 かつてテレビ番組を「記録」したい、と熱望したガキどものその情熱は、音にはカセットレコーダー、映像には銀塩カメラしか機材のない時代とは言え、そもそもなぜあそこまで「記録」したいと熱くなった/なれたのか、ということも含めて、すでに「歴史」の相におけるお題になっているように思う。

 たとえばそれ以前、テレビがなくラジオしか放送媒体がなかった時代、人気のラジオドラマなどの番組を「記録」しようと、一般の聴取者がそこまで熱くなっただろうか。手段としては手もとで文字のメモをとるくらいだろうが、ラジオに対してそのような「記録」はどれくらいされたものだろう。

 映画ならばあり得たらしいというのは、かつての映画好きの中にはひたすら映画館でメモをとってそれらをもとに同人誌的なものをこさえて、という経緯でファンジンのはしりみたいな活動をしていたことは、サイレントの頃からあったことは記されている。

 つまり「批評」的な視線、そちらへ向う情熱が宿るような場において、それら「記録」への情熱も宿るということなのか。だとしたら、それらの情熱は文字/活字の読み書きによって下地が作られた上にスパークするようなものだったのだろうか。ゆるく要検討かつ茫漠と大きなお題としても。

 「所有」の欲望と「記録」の関係。映画ならばその映像自体をブツとして認識できるようになれば「所有」へとつながりやすいだろうが、「音」はどうだろう。レコードのような記録媒体をブツとして対象化できているなら別だが、放送される「音声」をそのまま「所有」したいと思うようになる機序とはどうか。〈いま・ここ〉においてその場限りでしか体験・見聞できない、その体験自体をブツとして認識する/できるようになってゆく過程。「記念」という考え方などとの関連その他も含めて要検討ではあれど。

 そう言えば、かつての写真のアルバムの既製品には、「おもいで」とかそういうタイトルがすでにつけられた商品も割とあったな……「おもいで」とか「おもかげ」とか、いずれそういうポエム的なワンワード散りばめ手法というのは、それによって喚起され得る何ものか、というのがすでにある間尺で定型的なものになっていることを前提にして成り立つ手法ではあったんだろうな。あるいはまた、絵葉書や写真の映像画像系のブツに「キャプション」つける習い性などとも。それらは、「抒情」とかそういう少しムツカシ系のワンワードなどにまで敷衍して考えておく必要ありかと。

 「旅情」なんて言い方ももう忘れられつつあるらしいが、旅行に出て何かキモチやココロが動いた時、つまり「うた」につながるような感情の波立ちがあった場合、かつてならあたりまえに「うたを詠む」ことにつながっていたらしく。前も触れたが、そのへんのもにょらざるを得ない感覚というのは、折口信夫ご一統のフィールドノート的なものが、ある時期そのような「うた」の形式で「記録」されるものだった、というのを知った時の(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシ感にもつながるのだが。