「おはなし」の制御のされ方・メモ

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猗窩座さん、煉獄さんとの対決では典型的なアレな小物っぽく見せられており、もしあのまま彼のバックボーンが語られないまま彼が殺されていたら、恐らく彼はネタキャラ以上の存在にはなれなかったと思うのだよな。では逆に言うとバックボーンの語られなかった「小物たち」は本当に小物だったのか?


これは鬼滅に限った話ではないんですけれども、我々は「語られた物語」には過剰なまでに共感を示すことがあるのに「語られない物語」に対しては驚くほど鈍感かつ冷淡なんですよ。


逆に手練れの物語の作り手は、それを逆用して「ヘイトコントロール」をすることが出来る、やってくることがある。そういう構造に気付いたときは割と背筋が凍るというか、隠された時限爆弾を発見してしまったときのような緊張感が出てくる。


この話、たとえば鬼舞辻無惨に「邪悪さの理由」バックボーンが用意されたら興醒めだ、ていうのは確実であるのですが、それは『読者にとっての許されざる敵』として無惨が適切にヘイトコントロールをされたからだと思うんですよ。


吾峠先生なら、あれだけの蛮行を行い、鬼殺隊を愚弄した無惨にさえ、その行為に納得の出来る理由や背景を用意することは簡単に出来たはずです(猗窩座さんにそれが出来たのだから、これは当然無惨にも出来たでしょう)。しかし、やらなかった。そういう邪悪な存在として、敵として無惨が必要だからです


さて、ここで無惨を憎むべき、汲むところのない邪悪な存在として求めたのは、吾峠先生でしょうか?我々読者でしょうか?


恐らく吾峠先生は理論的にどうかはともかく、感覚的に『そのこと』に気付いている。それは妓夫太郎の話から明らかではないか、と自分は考えています。


(妓夫太郎の話に関してはこちらのツリーを参照されたし)( twitter.com/Werth/status/1… )


頭がおかしいと言えば堕姫・妓夫太郎のエピソードもだいぶ頭おかしいんだよな。これ竈門兄妹の裏の話なので。。。要するに「可哀想な被害者」ではない、醜い竈門兄妹の話だから。


妓夫太郎は『同情してもらえない竈門兄妹』として設計されたキャラクターだという話をしました。彼らが主人公の鬼滅の刃は、十週打ち切りでしょう。ヘイトコントロールに失敗しているからです。


「堕姫・妓夫太郎が主人公の鬼滅の刃」が十週打ち切りになるということは、我々読者が如何に『同情できる相手かどうか』という残酷な判断で「弱者」を選別しているかを如実に示すものだと自分は考えます。要するに、我々読者が作者をそう誘導しているのです。そうでなければ連載は切られるのですから。


さて、もう一度考えてみましょう。無惨を憎むべき、汲むところのない邪悪な存在として求めたのは、吾峠先生でしょうか


もし、鬼舞辻無惨に、これまでの評価を覆すような背景が与えられたら、少なからぬ読者は怒るでしょうし、実際興醒めなわけです。俺も興醒めです。しかし、そのように汲むべきところのない邪悪な敵であれと望む我々自身の願望も割合邪悪ではありますよね。たぶん吾峠先生、それを理解してるのでは。


まあこういう少年漫画における作品展開へのメタな認識と言及は今に始まったことじゃなくて、俺の知ってる限りでも冨樫義博幽遊白書でやっています。樹のツッコミですね。

『これからは二人で静かに時を過ごす』
『オレ達はもう飽きたんだ』
『お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい』

今振り返ると冨樫も大分頭おかしいな……。少年漫画の構造への批判を、作品内で行い、しかもそれが物語として作品内できちんとした意味を与えられている。『少年漫画』というものに延々と苦しめられ続けた連載作家だからこそ描けた話かもしれませんけど、それにしたってこの技巧はヤバい。


当時の読者(いや俺なんだけど)どんな面してあのセリフ読んでたんだろうな。今お前らのこと批判されてんだぞ。わかってんのか(わかってませんでした)


幽遊白書後期から『冨樫は壊れた』という言い方がされていたことありましたけど、こんな物凄い壊れ方する人いる?ていうのが正直な感想ですね……。物凄い正確な壊れ方ですよ。