「化学と生物」という科学雑誌で、年配の方(今なら90歳以上の世代)が書いていた文章のいくつかが印象に残っている。学校で教えられた原理・法則の美しさに衝撃を受けた、という話。乱雑に見える自然界を貫くシンプルな法則の存在に、その美しさに驚いた、だから理科が好きになった、という。
— shinshinohara (@ShinShinohara) 2021年11月17日
まとめました。
— shinshinohara (@ShinShinohara) 2021年11月17日
「センス・オブ・ワンダー」は世代によって解釈が逆|shinshinohara #note https://t.co/SqqYkWcDLp
「化学と生物」という科学雑誌で、年配の方(今なら90歳以上の世代)が書いていた文章のいくつかが印象に残っている。学校で教えられた原理・法則の美しさに衝撃を受けた、という話。乱雑に見える自然界を貫くシンプルな法則の存在に、その美しさに驚いた、だから理科が好きになった、という。
昔の人は風呂焚きも薪で火をおこしたり、ごはんもかまどで炊いたり、水も井戸から汲んできたりと、生活体験が恐ろしく豊富。そうした膨大な体験を積み上げたうえで学校に通い始め、シンプルな法則がランダムに見える自然界を貫いていると知って、衝撃を受けたらしい。
化学の実験で、Aの液とBの液を混ぜたら赤く変わった、とか、日常では味わえない不思議な現象を見て、科学者を志すようになった、だから若い人も理科の実験をしなさい、という記事を複数読んだ。そうした記事を読んで、ああ、世代間ギャップが開きつつあるなあ、と感じた。
私は化学の実験を全然楽しめなかったタイプ。リトマス紙は色が変わる。そりゃそうでしょう。スチールウールは燃えると重くなる。そりゃそうでしょう。私は本の知識ですでに知っていて、化学の実験は結果を再確認するだけ。ちっとも面白くなかった。けれど昔の世代は不思議でならなかったという。
私は逆に、自然界の複雑さ、乱雑さが新鮮だった。誰もがマニュアル通りにやれば同じ結果が出る化学の実験より、湿った材木、乾ききった材木、その都度条件が違うために結果もまちまちなたき火や、乱雑な森や、様々な生き物がいる自然の方が興味深かった。
これは恐らく、私の世代にしてすでに、生活体験、自然体験が欠乏しつつあることを示しているのだろう。私の両親は自然のある所に積極的に連れて行ってくれたから、同世代ではまだしも体験はある方だろう。それでも、薪で風呂焚きしていた世代とは雲泥の差だと思う。
読書したくても図書館もない時代、ひたすら毎日の家事で水汲みから火おこしから、複雑な現象を生活体験として嫌というほど積んできた世代にとって、教科書に書かれていることは驚異だったろう。「燃焼とは、酸素と燃えるものと熱の3つがそろった現象!なんてシンプルな説明!」と。
実際の火起こしは、そんなシンプルな話ではない。最初は燃えやすい小枝を集め、紙などで火をつけ、空気の通り道に気を付け、熱い灰がたまるまでは火は安定せず、太い木材は端の方で乾かしつつ、三角に組みながら慎重に投入する、等々。実に複雑。あまりに複雑で、シンプルな法則に気づきにくい。
だからこそ、昔の人は、本に書かれていることに感動したのだろう。複雑怪奇なこの世界は、シンプルな法則で貫かれている!なんて不思議な!と、「シンプルな法則」の存在の方に、昔の世代は感動していたらしい。
しかし若い世代はその逆だ。教科書だけでなく、漫画やアニメに至るまで、科学の法則を先んじて聞いている。体験を積む前に。だから、法則に感動を覚えない。法則のシンプルさを当然視する。そしてうっかり、複雑怪奇な自然界もシンプルなのだろうと思い違いしてしまう。
ガスのスイッチをひねれば炎がすぐ出る時代に生まれた私たちは、炎と言えばそれ。もしIHだったりしたら、火も見たことがない。火は、教科書に書いてある通りのシンプルなものだと受け取りかねない。もっと複雑怪奇で乱雑で、奥深いものなのに。
だから私たちの世代より後に生まれた人たちには、「センス・オブ・ワンダー」が必要なのだろう。
この言葉、90歳以上の世代の人は受け取り方が全然違って面白かった。ご高齢の方にとって、センス・オブ・ワンダーとは、複雑に見える自然を貫くシンプルな法則のことだという。受け取り方がもはや逆。
現代の私たちにとっては、センス・オブ・ワンダーとは、教科書に書かれている法則にとどまらない、自然の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚くこと。その複雑さに驚くこと。昔の人はシンプルさに、今の人たちは複雑さに。方向が逆転しているように思う。
逆に言えば、学習意欲は、複雑怪奇な自然体験、生活体験を積めば積むほど湧くように思う。目の前の現実があまりに複雑すぎて理解が及ばないのに、本には驚くべきシンプルさで自然が記述されている。そのギャップに驚き、本を面白く感じるように思う。
だから、本好きにする一つの方法は、自然体験、生活体験をみっちり積むことではないか、と思う。本に書かれているようにはなかなか物事が進まないことをよく知ったうえで、なぜ本の著者はそんなシンプルな法則にまとめることができたのか?そのギャップに気づけると面白い。
今の40歳未満の世代は、マッチを擦ったことがない人が増えている。火打ち式のライターも扱ったことがない人が増えている。チャッカマン(バッテリーで火花を起こすタイプ)ならかろうじて、という人も多い。火から遠ざかっている。火という、化学の基本現象に体験のない人が増えている。
阪神大震災の時、高校3年生7人がボランティアに来ていて、被災者の方たちが暖をとれるよう、ライターを渡して、火起こしを頼んだ。1時間ほど用事を済ませて戻ってきたら、まだ火が起きていない。なんで?と聞いたら「角材をライターで1時間あぶりましたけど火がつきませんでした」と衝撃の返事。
彼らも今は44歳のはず。7人いて7人とも日の起こし方を知らなかったのは、衝撃だった。
そのことを2003年ごろ、笑い話で旧帝大の学生5人にしたら、全員赤い顔に。どうしたの?と聞いたら、「それで火がつくと思っていました」という返事。これまた衝撃を受けた。
若い世代にとって、火は、本に書かれているシンプルな法則の方が身近で、複雑怪奇な自然界で起きる火は、遠い存在。だから、角材をライターであぶれば火がつくと思ってしまうのだろう。熱、酸素、燃料、がそろっているわけだし。しかし。
「熱」がミソ。ライターで常時あぶり続けている間は角材にも火がつくが、ライターの火がなくなると火は消えてしまう。なぜか。角材が冷たすぎるから。角材の炎だけでは角材自体の冷たさ、空気の冷たさで冷却され、熱が失われ、燃焼は続かなくなる。
紙や小枝は、それ自体の冷たさより、炎が提供する熱の方が圧倒的。だからその熱が次の燃焼を促して、連続した炎になる。その炎にしばらく当てて、太い角材も温めておけば、角材にも火がつきやすくなる。材料を温めておくことが非常に大切。「熱」というのは、そういう意味。
しかし、本に書かれているシンプルな記述では、そうしたことがごっそり抜け落ちている。そうした体験は当然子どもたちは経験済みだという前提で、教科書は記述されている。この点に、現代の教育の問題があるように思う。生活体験、自然体験が欠落しているからだ。
この世界がシンプルな法則で貫かれていることに感動するには、複雑怪奇な自然界を、生活体験で味わい尽くしている必要がある。そのうえで教科書のシンプルな記述を読むと、感動すら覚える。そうした構造になっていることを前提に子育てを考えないと、学力というのは育たないように思う。