眼前の貧困・メモ

 この季節になるとよく思い出す。灯油配達の仕事をしているとコテコテの貧困者や貧困ラインすれすれな人を相手にする事もたまにあった。彼らの多くはお世辞にも美しくは見えない。彼らの要望や振る舞いの中に染み出してくる独特の雰囲気。正直、嫌な気分になる事も多かった。


 それは多くの人々が等しく持っていながら隠そう、克服しようと思っている(しかし永遠に克服できない)部分がよく見えてしまっているからだ。弱さ、依存心、怠惰さ、無思慮、無計画、衝動性。自分の中にある弱くだらしのない部分を鏡で見せつけられたような不快感を覚える。


 多くの人は自らにも内在するこういった部分を見せないよう必死に生きる。嫌で辛い仕事や人間関係を笑顔でこなし、寝起きがどんなに辛くても「エイ!」とばかりに寝床から這い出し身嗜みを整え、様々な人生の理不尽を粛々と飲み込んで生きてゆく。


 しかし、それが叶わなかった者、一敗地にまみれた者、挫折感と二度と戻らぬ人生(若さ)を思い苦しむ者、身を守りる鎧を持たぬ者……いや「イチジクの葉を持たぬ者」と表現した方が良いか。そういう人たちの姿は見るものに言い知れぬ不安感や嫌悪感をもたらすものだ。


 彼らの中に自分自身を見るから。


 弱者保護を訴える事の難しさ、大変さはここら辺にある。世間の関心や同情心が向かい難く、しかしながら近代法の必然として守られなければならぬ人の存在を世に訴え活動しなければならない。これはもう粗食のみを食いながら延々と写経でもして暮らすようなストイックさが必要になるのだと思う。

 「貧困」「貧しさ」というのは、すでに語彙として確定されているし、字ヅラにしてももう眼に立つようなエッジは感じさせなくなっている、その程度には「そういうもの」となっている。だから、みんな語彙として使うし、使うしかないし、またそうやって伝わってゆくものの「そういうもの」さ加減の間尺でしか、それら「貧困」「貧しさ」の内実も人々の耳にも眼にも〈リアル〉にならない。

 久田恵がかつて、生活保護の内実について、さすがにあの世代の草莽ライター、しかもまごうかたないおばさん(ほめてます、為念)の足腰でつぶさに解明しようとした仕事があったが、あれももう30年以上前のこと。バブル断末魔の時期、もちろん未だ世相風俗的にはうわついた「豊かさ」満喫している空気はたっぷりあったから、そのような同時代環境で「貧困」という語彙がどのように眼前の事実としてのそれと乖離しているか、特に生活保護という政策的な現場において、それら語彙を行政が駆使してゆく中での不条理の個別具体を、ひとつひとつていねいに拾っていたのが、素朴に新鮮だった記憶がある。


 ましてそこから30年以上、令和の御代における「貧困」「貧しさ」「貧乏」の内実というのもまた、改めて〈いま・ここ〉の裡の〈リアル〉として繋ぎ止めておけるだけの、ことばやもの言いに対するつぶさな感覚や自覚は必要なのだと思う。

 自分ごととして少し放り出しておくなら、一昨年から昨年にかけて、ちと縁あって面倒見なければならないことになった、とある高齢者のジイさまのことを思い出す。末期癌のステージ4で、厩務員として身を寄せていた牧場にひとり暮し、身寄りも遠い内地の故郷にしかいないというので、致し方なく病院通いの世話や生活保護の申請その他、ざっとひと通りしなければならなくなった。

 で、そのことはとりあえずどうでもよくて、ひとつこの場で書き留めておきたいのは、抗癌剤治療で半月に一度ほどの病院通いの足代わりの運転手として定期的につきあうことになり、生活保護申請をして公営住宅に引越しも何とかさせた、その先の公営住宅でのまわりの人がたのたたずまいとそのジイさまとの交友ぶりのことだ。

 大方は60代以上、夫婦ものもいるが子どもはおらず、それらもせいぜい下は50代半ばあたりまでか。生活保護受給者ばかりだということだったが、朝になるとそれぞれ出かけてゆくところを見ると、地元でそれなりに働く場所を持っている向きが多いらしい。当のジイさまを介して事情がわかってきたところによれば、地元の病院の給食係や掃除婦、牧場の雑役といった仕事で、夫婦で働くから受給資格に明らかにひっかかるまで稼いでいるのは明らかなのに、そのへん町役場の福祉課も何も言わないし、何より当人たちも何らうしろめたそうなところもない。

 歩いてゆける範囲の小さなスーパーや商店で、野菜や食材を買い込んできて何やら手料理を作ったならば、必ずと言っていいほど隣近所に「おすそわけ」をしてまわる。これはもう自然に、習慣づけられたもののように見えるほど、全く無理のない振る舞い方になっていた。われらがジイさまも、年齢にしてはイケメン風の風貌に加えて、持ち前の世間師的社交術に鍛えられた口のうまさで、バアさまがた中心のそれら「ご近所づきあい」のちょっとした中心にいるようになり、同じ階の両隣4、5部屋分くらいのそれら手料理をかわるがわる賞味するようにもなっていた。

 もっとも、味の方はご当地郡部のネイティヴ味つけ、さらに食材の保管がまずかったりするのも珍しくなく、口にあわないながらつきあい上致し方なく飲み下したカレイの煮つけにあたって3日ばかりのたうちまわったり、まあ、「おすそわけ」介した「ご近所づきあい」もなかなか辛いものがあったらしい。

 男も女も喫煙率が高く、また特に目的もなくパチンコ屋に足を向け、手持ちの小銭がなくなれば(まあ、すぐになくなる)、その近所に必ずできている喫茶店ともメシ屋ともつかず、といってそこらの一般の民家というわけでもない、外から見たらどう判断したらいいかちょっとわかりかねるものの、要は同類年寄り衆のたまり場になっているところにひっかかり、ストーブにでもあたりながら陽が傾くまで、あれこれ駄弁りつつとぐろを巻いている。

 ふた月に一度の年金支給日になると、朝早くから郵便局のATMか、地元の銀行の支店に並んで、現金をおろしてくる。それを見越して、住んでいる公営住宅の向かいにある寺の寺男が各戸を訪問して、「町内会費」と称するカネを徴収してまわることになっている。
喪黒福造を漁船に何十年か乗せて潮風に当てて日干しにしたような顔つきの、あやしげな愛想のよさのおっさんなのだが、どうしてそういうことになっているのか、尋ねても要領を得ず、払いをしぶるとこれが一転、声を荒げて妙にすごんだりするあたり、地元ならではの「そういうもの」のたてつけがあるのだろう、少なくともそう思ってやりすごすのが無難であり、当のジイさまも陰では悪口いいながらも、言う通りにきちんきちんと払っていた。通帳があるわけでもなく、カレンダーの裏紙みたいな紙片に十二ヶ月マス目をマジックで描いたのを玄関先の壁にセロテープで留め、そこにまた赤いマジックで雑にバツ印を入れてゆくだけ、それが「受取り」ということらしかった。まあ、その寺が所有していた土地を、行政が書いとるなり何なりして、そこにその公営住宅を建てたといった事情から、半ば特権的に「町内会費」を徴収する権利もなしくずしに与えてしまっているのだろう、と解釈した。そのカネであいつ、海外旅行したりしてるんだわ、というのが、その界隈でのもっぱらの噂になってはいたのだけれども。*1

 


 

*1:とりとめなくなるので、とりあえずこのへんで。続き、あるいは派生した挿話その他については、また別途、機会があれば。