「学校化」の遅延爆弾

 「運動」モードみたいな言葉やもの言いの運用作法を、無自覚無意識に「そういうもの」として実装してしまった人がたって、世代を越えてうっかり存在していて、それは本質的に「学校」的言語空間を制御しておくたてつけが社会の中で煮崩れていったことと関係しとる感。

 子ども~生徒の段階で、それら「学校」的言語空間に対抗する日常的な言葉やもの言いの領分が、すでに対抗的なものにならなくなっていて、それはかつて「学校化社会」とか言われていた事態のもたらしたある本質的な変化だったのだといまさらながらに思い知らされとるのかも、われわれは。

 「学校」に対抗する「日常」――子ども~生徒の段階ではそれはやはり「家庭」がドミナントだったはずが、言語空間として「家庭」を軸足にした「日常」の広がりが情報環境の変貌と共にどのように変わってゆき、何よりその中で当の子どもらがどういう情報リテラシーを実装して/させられていったのか、と。

 web以前から、それこそテレビの浸透などからそれらは始まっていたはずだが、問題はそれら情報環境の変化とそれに見合った言語空間のありかたの中で、話し言葉による半径身の丈の「日常」のゼロポイントが足場を築けなくなっていった過程があったことが、おそらく本質的な煮崩れの原因かと。