駐妻ブンガク

 「眞子様と小室さん、このカフェよく来るらしいよ」思わず周囲を見回すが、店内に日本人らしき客はいない。「噂だってば、噂」エミがケラケラ笑う。田舎者みたいな行動をとってしまい、耳まで真っ赤になる。ここはマンハッタン。NY駐妻エミの本拠地であり、限界途上国に住む私にとってはアウェーの地。


 平静を装ってメニューを開くが、値段に目が飛び出そうになる。「最近のアメリカはインフレが凄くてさ。メキシコは物価安くて暮らしやすそう」NY駐妻の余裕を漂わせながら、こちらの心を見透かしたようにエミが話しかけてくる。1mmたりとも羨ましいと思っていないことだけは、はっきりと伝わってくる。


 「メキシコシティって標高2200メートルだっけ?そういえば東京でもタワマン高層階に住んでたよね、やっぱ高い所で炊いた米って硬いの?」エミが畳み掛けてくる。勝利を確信した微笑み。悔しいことに、海抜10メートルのNYで食べるガパオライスの米は、硬くもなく柔らかくもなく、ほどよく炊けていた。


 同期で丸紅の一般職として入社したエミは内定者時代からライバルだった。立教の放研出身で、フジのアナスクに在籍していたことを鼻にかける立教女学院あがりのお嬢様。学生時代、青学でイベサー運営の傍ら、ひたちなか親善大使として活動してた私と、ありとあらゆる場面で静かに火花を散らしていた。


 エミと私の競争は、同期で一番のイケメン、慶應義塾体育会ソッカー部キャプテンのケンヤを私が射止めた事で決着がついたはずだった。コンラッドで開いた披露宴、実は内定者時代から付き合ってたと明かした瞬間のエミの呆然とした表情は傑作だった。あんたのLINE、ケンヤはしつこいってウザがってたよ。


 エミが冴えない風貌の、三角関数が得意そうな経理部の先輩と台場のヒルトンで結婚式を挙げたと聞いた時、何の感想もなかった。その頃、私はタワマン高層階で硬い米から離乳食を作るのに忙しかったから。世界中を股にかける商社マンのケンヤ、最愛の息子。あの時、世界のすべてを手に入れたはずだった。


 そして7年後。私はメキシコシティの薄い空気を吸いつつトルティーヤをかじり、エミはNYで優雅に暮らしている。「インスタ見たよ、買い出しでNY来てるんだね🇺🇸折角だし会おうよ!」メキシコと違い、物乞いの少年も銃を持った警備員もいない、セントラルパーク脇のお洒落カフェ。標高差でクラクラする。


 「ケンジ君はもう7歳か、スペイン語も喋れてトリリンガルでしょ、羨ましいなあ」これまた全く羨ましくなさそうにエミが鼻で笑う。息子のケンジはインターに通わせてるが、メキシコ人が7割の学校でお友達とスペイン語ばかり使い、肝心の英語はイマイチだ。財閥系商社と違って学費補助が全額出ないのに。


 「うちは2人目が産まれたばっかだから手続きが大変で。ほら、アメリカ国籍だし」母親同士の会話に飽きてスペイン語YouTubeを視聴し始めたケンジに気を取られているうちに、エミの国籍マウンティングが炸裂した。ベビーカーでうたた寝する三角関数2世は、誇らしげに星条旗のおくるみに包まれていた。


 「この後はブロードウェイ行くんだっけ?私はこっち来た時に観まくって飽きちゃったけど、新鮮な気持ちでミュージカル観れるの羨ましいな」怒涛のマウンティング攻撃に心が折れそうだ。ルチャ・リブレ亀田三兄弟に飽きて、家で桃鉄99年を1人でやりこむ私と果たして同じ星に住んでるのだろうか。


 「今年の夏休みは家族でカンクン行くつもりだから、もし良かったら会おうよ!」メキシコという括りで軽くまとめられたが、東京の友達に「那覇で会おう!」と言ってるようなものだ。限界途上国に対する先進国の視線が痛い。外に視線を向けると、5thアベニューのトランプタワーがギラギラと光っていた。


 青学を卒業して総合商社の旦那と結婚。子宝にも恵まれ、私の人生は順風満帆だと信じて疑わなかった。でも、それは大きな勘違いだった。駐妻になっても国によってヒエラルキーがあるなんて、親も先生も人事も教えてくれなかった。ハードシップ手当てなんかいらないから、NYかロンドンに住ませて欲しい。


 「NYで同期と久々ランチ🍛物価高すぎて早くメキシコに帰りたい🇲🇽」エミと別れ、インスタに投稿。空虚なやりとりの末に生まれる、死んだ感情の残骸をご飯の写真と共に張り付ける作業も疲れた。「次の人事、ブラジルに横移動っぽい!」ケンヤからLINE。そっか、単身赴任頑張って。私は東京で頑張ろう(完

君たちこんな低俗なTwitter小説読んでる暇あったらブルーピリオド最新刊読んで己の内なる創作意欲と向き合え。若者はとにかく手を動かせ。おじさんはもう手遅れだから、僕と一緒にインターネットでキャッキャウフフしてれば良いんじゃないですかね。


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