「内面」「本心」に踏み込まないこと

学生と話していると、今の若い人がどれほど禁欲的に他者の内面に踏み込むことを悪と感じ、忌避しているがわかって驚くことがある。恋人がいないというのもこういうスタンスと関わりがあるだろう。


付け加えておくと、他者を心理的に侵犯しないよう常に気を遣うというのは、優れた倫理的態度だと思う。ただ、それだけでは人間関係は進展しないとも感じてしまう。ここで内面に踏み込むというのは、相手の「本心」を知りたがるとか、相手の言葉に強く異を唱えるとかいったこと。


昨年映画『花束みたいな恋をした』が話題になり、ヒットしたのは、マイナーな趣味を介して男女が一切の暴力性と無縁に通じ合い、心と体がつながるという奇跡のような事態を描いていたからではないだろうか。性欲からも暴力性が浄化され趣味こそが愛を生む。サブカル者のユートピア。少なくとも前半は。


なぜこう思ったかというと、授業である小説を読んでいて、恋人の「内面」を知ろうとするのは暴力ではないかという意見が出たから。なるほど、そう感じるのかと。恋人ともジェントルな距離を保ち続けるということかと。


自分はそういうスタンスにある種のリスペクトと愛おしさを感じるけど、でも孤独な道だよな。

そりゃあね。「皆違って皆良い」「他者を尊重しなさい」と教育されてきて、かつ争いになればやれハラスメントだなんだと言われるし、Twitter見てても「(お店とかで)見ず知らずの人に話かけられて迷惑だ」みたいな話題が定期的にバズる世の中だもの。


となれば他者の内面に触れないのが最適解

下手に踏み込むとセクハラ、差別になりかねないのでそもそも踏み込まない、という事なのかもしれない。


今まで「うっかりセクハラや差別を多少しても許される(そのくらい許さなきゃいけない)」という汚さだったからこそ恋愛に発展できていた側面もある気がする。

とても興味深く読ませて頂きました。


インターネット文化は自己表現の場となったと同時に、知らなくて良い他者の思いが集団暴力と化して押し寄せる場にもなったとだと感じます。


インターネットが存在する世界で育った人は、内面を押し付ける・押し付けられることに辟易としてるのかもしれないですね