【ある女医の青春と学歴】
— ゆな先生 (@JapanTank) 2022年8月24日
一昨年、人生で初めて額面年収が2000万を超えた。
「あれから、何年経ったんだろう」。
Twitterで流れてくる「経験中心の履歴書」のタイムラインを見ながら、遠い故郷を思い出していた。
私は現役である慶應医学部に入った。華々しい学歴だと思うだろうが、身の上話をする。
【ある女医の青春と学歴】
一昨年、人生で初めて額面年収が2000万を超えた。
「あれから、何年経ったんだろう」。
Twitterで流れてくる「経験中心の履歴書」のタイムラインを見ながら、遠い故郷を思い出していた。
私は現役である慶應医学部に入った。華々しい学歴だと思うだろうが、身の上話をする。
私は人口減少が続く村の長女として生まれた。勉強はよく出来た。
実家は裕福だったが、若い頃に父が病気で倒れたあとは家計は苦しかった。父亡き後、母は子供3人を女手1つで育て上げてくれた。ふるさとは市町村合併で吸収され市になって村の名前は滅びたし、村に続く鉄道は廃線になってもうない。
父が他界したあと、母が仕事で遅くなることが増えたので、中学入学後は夕食は兄弟姉妹で分担することになっていた。
私は月・水・金を、弟が火・木を担当した。
私はテニス部に入っていたが、夕食の準備がない火曜と木曜だけはフルに練習に参加できた。ラケットと靴は卒業した先輩からのお下がりだ。
夕食作りの都合でコート整備までいられずに、急いで帰ることもあった。
雨が降った翌朝は、早朝1人学校に来て、スポンジでコートの水たまりを乾かしたりしてコート整備できない埋め合わせをした。
剥がれたライン部分にはライン引き石灰で線を引いた。
先生も同級生も事情を知っていて、皆優しかった。
テニスコートでの練習量が他の人より半分になるので、早朝や夜に走ってスタミナをつけた。
田舎には信号がないから、どこまででも走れた。夏になると足元でバッタが跳ねた。
私は片道20kmにある公立高校に入った。電車はなく夕飯の買出もあるから、1時間に1本のバスではなく、ママチャリで通った。
1日往復40km。安いママチャリだったから、年に何度もパンクし、学校に遅刻した。
鞄の中にはパンク修理キットを入れていた。1年で10000kmくらい走ったと思う。
片道25km自転車で通っている同級生もいたが、彼がパンクも遅刻もしないのを不思議に思っていた。地元の人はだいたい同じ高校だった。
母校の小学校には誰1人として私立の中高一貫校に進学した人はいなかったし、そもそも「中高一貫校」や「中学受験」なるものが存在することを知らなかった。帰国子女に会ったことは当然ない。
高校も、私立に行くというのはよほど勉強ができない人だと思っていた。
高校でも成績は良かった。部活も継続したが、夕食当番は相変わらずだった。
塾ないし、たまに1時間かけてバスで隣町までいって参考書を買った。成績が良いのは母も喜んでくれた。
中学と違い高校は学費がかかるから、「お母さん頑張るから」と残業を頑張ってくれていた。
高校2年の夏、ママチャリで帰宅中に知らないおじさんに声をかけられた。
「あんたゆなちゃんやろ。その自転車で通ってるんか」
私の名前をなんで知ってるのかはわからなかったが、村人というはなぜか他の家の子の成績や、好きな食べ物まで知っている。
おじさんの家についていった。立派な家だ。
「これ(次男坊)にちょっと勉強教えてやってくれんか。小遣いやるから。あとこの自転車乗らないから、あんたにやるから」と言われた。
1ヶ月勉強を教えた。次男坊は私より年上の高3なのに数学は中学レベルからやり直しだった。英語は妙によくできていた。成績は随分伸ばせたと思うし、感謝された。
私が1ヶ月の家庭教師で得たものは、まとまったお金と、摩擦抵抗の少ない細いタイヤ、シマノの高速ギア、そしてカーボンの抜群の軽さを備えたGIANTのロードバイクだった。いくらするのかは当時は知らなかったが、20万はする。
学校への通学時間は半分になった。高速で走ってもパンクもしなくなった。
泥除けがないので雨が降ると制服のブラウスの背中が泥だらけになる。だから雨が嫌いだった。でも、通学時間が半分になったことで、部活に使える時間も勉強に使える時間も増えた。お金は参考書とか弟たちの部活の道具などに使って、余ったぶんは将来のためにと、とっておいた。
高校時代、男子に告白もされた。でも、誰とも付き合うことはなかった。
恋愛をしたいなと思ったけど、私には家族の面倒を見る必要があったし、勉強もしたかった。海外留学とか、オープンキャンパスとか、大手予備校の夏期講習とか、そういうのにも行きたかったけど、そんな時間もお金もなかった。
私は、経験を買うことができなかった。経験どころか恋愛も時間とお金が必要だった。
村には外国人なんていないし、学校の英語の先生も英語は話せなかった。家にインターネットはなかった。
父が遺した古いソニーのラジオを使い、電波の届きやすい2Fの窓際で、入りにくい日は外に出て、
NHKラジオ英語講座を聞いて生の英語の声を聞いてリスニング対策の勉強した。
短波放送で海外から流れてくる微量な電波を受信して、海の向こうに思いを馳せた。
大学で東京に来たとき、東京ではラジオがきれいに入ることに感動した。外国人もいっぱいいて、米軍放送で英語を24時間聴けるのも驚いた。
高3のとき、進路選択の問題に直面した。
田舎には、高収入な仕事は2つしかない。
中小企業の経営者か、医者だ。
経営者は跡継ぎ息子がやるから、優秀な人間は医者になる。だから東京の高校より地方の高校のほうが医学部に行くことを重視する。経営者か医者以外は、地元で定収入で働くか、
コネで地方公務員をやるか、高収入を求めて都会に行かなければいけない。
しかし私はそもそも大学に進学するお金をどうするのかが喫緊の課題だった。私には弟たちがいたので、彼らのことも考える必要がある。お金を集められなければ、高卒で地元の飲食店で働くか、役場で高卒事務員をするしかない。
役場に高卒枠があるのは、私みたいな人を救うためだろう。
「ゆなちゃんうちのスナックで働けばいいじゃない。お客さん増えて嬉しいわ」
と声をかけてくれるおばちゃんもいた。
高卒で都会に出てキャバクラで働くとかも考えた。
キャバクラやAVならいくら稼げるのだろうと真剣に調べたこともあった。
そのお金で、学費と東京の居住費は払えるだろうか。
「初めての相手は彼氏がいいけどなー」と思ったりもした。
高3の夏に、資金問題が大きく動く。
地元で先祖代々会社経営をしている村一番の金持ち名家がいて、その社長を訪ねた。
あのロードバイクをくれた家だった。
ベンツが止まっていて、玄関には立派な生花とゴルフクラブがある。
最新の模試の結果を3つと、校長からの推薦状をもっていった。
社長はあのおじさんだった。背は低く太っているが、目は鋭い。
「東大に行きたいんです。もし受かったら、卒業までの学費と東京居住費を無利子で貸してくれませんか」
模試は志望校はA判定だったが、田舎でも受けられるのは一般的な模試ばかりで、東大模試は都会に出ないと受けられず、その結果を聞かれないか心配だった。
「あんた、XXさんちのゆなちゃんやろ。お母さんは元気か」
「俺は商業高校しか卒業してないけど、親父から継いだこの商売を大きくしてきた」
「でもな、商売すればするほど、英語とか理科ができんといかんと思うときがある」
「知ってると思うが俺の息子はぼんくらだから、海外に留学させた」
「俺じゃあんたの成績はわからんから息子呼ぶわ、おいXX(社長の息子)、おるか?」
社長の息子は確かに地元ではぼんくらで有名だったが、
高校のときに米国に1年交換留学にいって、そこから留学経験を引っさげてAO入試で東京の有名私立大学に通っていた。
私が教えた数学で留年を回避したと聞いた。
寝起きの面のぼんくらは社長に模試結果内容を説明し、社長は無利子融資の承諾をしてくれた。
「あんた、がんばって受かれよ」
私はそこから必死に勉強した。赤本は遠くまで買いに行った。在庫がないと困るので事前に電話した。
夕食当番はセンター試験がある1月からは弟たちが肩代わりしてくれた。
家庭教師で稼いだお金の残金で、東大と慶應2つを受験する。慶應の医学部は私立では一番安いが、それでも高すぎる。
東大に受かれば社長から無利子の融資を受けられる。
慶應にいくお金はないが、そのときはキャバクラでもAVでもいいからなんとかしようと思っていた。
一般的な大学受験は、まず1月下旬にセンター試験、2月上旬から私立の低難易度校、2月中旬に早稲田、慶應、2月末に国公立二次試験(東大など)で終える。
センター試験は95%取れた。これなら慶應法とか中央大法とかならセンター試験のスコアだけで全然受かるレベルだった。
留学していればAO入試であの算数ができないぼんくらでも受かると思うと複雑だが、他人のことはどうでも良かった。
まず慶應医学部の試験が始まる。2月中旬に一次試験。
3月上旬に二次試験がある。この間の2月末に、国公立(東大)の二次試験がある。
東京に何度も行かなければならないので、お金がかかる。社長は自分の出張ということにして会社からお金を出してくれた。
東京大学理科III類の受験日の直前、母が倒れた。
非正規雇用として長らく働いていたが、3月で派遣契約が終わると告げられて、過労もあって倒れたという。
母は学もなく、賃金の低い仕事しかなく、兄弟3人を食わせるために働いてばかりいた。
弟たちは「母は任せろ」と東京へ向かって試験を受けるよう言った。社長がベンツで駅まで送ってくれた。
東大って初めて来たけど、慶應と比べてこんなに広いんだなあ、いいなあと思った。
しかし母のことで試験に集中できず、結果はさんざんだった。
自分の実力がなかったのがいけないが、これまでやったすべての過去問の出来よりも悪かった。でも、ここまで頑張ってくれた母、そして兄弟には感謝しかない。
キャンパスを離れるとき、「ここに通いたかったなあ」と思った。
遺伝子を持たざる者、一家に伝えられる教育法を持ち合わせていない者、資金を持たざる者、それゆえに経験を買うことが出来ない者が、自己の努力で人生成り上がれる仕組みである学歴。AOや指定校推薦では入れない東京大学。
確かにSAPIXや鉄緑会に幼少期から通い、さらに遺伝的な要素を持った人がが合格することは多いし、その上太い実家に生まれた人は多い。
しかし、100万200万を軽く投じて留学へいって勉強があまりできなくても裏技的に早慶にAOで入るルートとは違う、格差是正の道でもある。
江戸時代の封建的な制度を廃し、身分や資金に関わらず、全国から優秀な人材を集めて国家を豊かにしていこうというのが明治維新であり、近代日本の発展の歴史ではなかったか。東大も、そんな国家の発展のために作られたはずだ。
私はたどり着けなかったが、その試験に通ることは、正義だと思っている。
慶應医学部の合格書類を前に、私は悩んでいた。
どうやって6年通うことができようか、それどころか、収入がなくなった母と弟たちはこれからどうやって生活していけるだろうか。自分が働かなくては...
私は合格通知と学費明細をもって社長の家を訪ねるとこう言われた。
「なああんた、大変だったな」
「あんたの学費と生活費、ワシが払ったるわ。返さんでもええ。あと、あんたの母ちゃんはウチで雇ってやるから、家族のことは安心せい」
「その代わり、ウチのぼんくらが将来結婚できんかったとき、あんた結婚してやってくれんか。子供は3人欲しい」
私はこの条件に承諾した。今でこそ法律上無効な契約だったのだと理解しているが、私は契約書にも指で拇印した。
自由も、金がないと得られないのだ。
しかしそれでもこの篤志家社長には本当に感謝している。
毎年盆暮れには手紙を出しているし、帰省したときには挨拶に行っている。
東大に進めなかったことはとても残念で申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、私は結果として大学に進むことができ、立派な職につくことが出来た。
ただ、本当に好きな分野でバリバリと仕事をすると給料が足りないので、業界の中でも儲かる仕事を選ばざるをえないところは今でもある。
医療脱毛のバイトをすればいそにいのような人物が来ることもある。だが、そんなことはどうでもいいのだ。
学生時代も、大学内外で様々な奨学金があったので、何百万円という単位で給付の奨学金を得ることも出来た。それも誰かが出してくれたお金で、名もなき人々にも感謝をしている。
同級生の中にはベンツで通学してくる者、家賃100万のタワマンで下宿している地方豪族、様々な国へ留学へいった者などなどいろいろいたが、私立とはいえ「経験」だけで入れる学部ではなかったから、一種の連帯感と信頼があった。
金がなくとも、同級生たちは自分を受け入れてくれたし、楽しかった。
必死に勉強して勝ち取った学歴で、時給1万円の家庭教師のバイトも得られ、随分生活は楽になり、時間の余裕も増え恋愛をすることも出来た。
初めて彼氏と過ごした夜は、愛や快感はあってもモヤモヤしたやましさを感じていた。
あのぼんくらと結婚しなきゃいけないと彼氏には言えなかった。
私は学生時代から何度も何度も必死にぼんくら君に女性を紹介した。恋愛の至難もした。とにかく必死だった。
自分のことを日本一必死になってくれるの婚活斡旋所だと思った。
彼が若いうちに私ではない女性と結婚してくれたので、結婚義務が解消した。
その後やっと私は晴れ晴れした気分になった。
ぼんくら君は、AO入試で私立文系に進んだあと、その英語力を買われ外資の良い会社で働いていて、収入もまあまああるようだ。
やはり会話をするとズレた感じはあるし知性ないが、悪いやつじゃない。
彼は契約書のことを知っているのだろうか。
私の年収は去年2000万を超えた。勝ち取った2000万だが、恵まれた2000万でもある。
あのとき篤志家社長がいなかったらどうなっていただろう、親が教育を施してくれなかったら、どうなっていただろう。自分だけで勝ち取ったものではない。
経験で評価されたらどうだろう?何カ国に留学に行きました、ボランティアに参加しました、と言っている人がいる一方で、私が早起きしてスポンジで水たまりを吸っていたと言って評価をされるか?夕食を家族のために作っていたと言って評価されるか?
私が2000万を得るに至ることは出来なかっただろう。
私は表面上だけきれいなことを言うリベラルを好きではない。
持たざる者が成り上がるための逆転ルートを阻もうとする人、性的・外見的魅力で利益を得ることをなにが何でも邪魔しようとするフェミニスト、結果的に社会の不利益になっているSDGs活動、言論の自由を封じるLGBT活動なども増えてきた。
暇でそこに時間を使える人、それによって利益を得られる者たちが群がっているのだろう。
彼らの大半は自己の利益に誘導していたり、することがないので表面的にきれいなことばかり言って中身がない活動をする。
親から与えられた圧倒的な資金力と経験で、よくわからない国際団体活動に参加し、
同じようなバックグラウンドの参加者たちとエコーチャンバーを形成して何が世界なのだ。
そんな表面的な活動が「経験」なのか?
それが「経験中心の履歴書」の社会なら、持たざる者にとっては這い上がる道がないディストピアではないか。
私が篤志家社長から資金を得られなかったら、奨学金を合わせても足りなかったら、キャバクラやAVにでも出てお金を稼いでいたかもしれない。
やってみたら意外と楽しい仕事で、ハマってたのかもしれない。それとも、それすら法律で禁止され、四面楚歌になりつらくて死んでいたのかもしれない。
福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず」には続きがある。
現代語に訳すと
「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」
「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨こう」
と続く。
もちろん、そこに経験が組み合わさり、机上の空論ではないリアリティあふれる考え方が出てくるのが理想なのは間違いない。
話は変わるが、私は社会に出てから、性差別や人種、国籍、出身、様々なバックグラウンドによって利益を得ることも利益を失うこともない世界はないものかと思っていた。
見た目が良いから、女性だから下駄履いてるんでしょと言われるのも嫌だし、その逆で損をするのも嫌だ。
そこでたどり着いたのが株式投資だった。お金に性別も色もない。お互いにわからない。
運も大きいが、自分の実力と意思決定だけで決まり、数字で明確に結果が出るのは気分がいい。
去年、資産が1億を超えた。高校時代からは想像もできないところまで来た。
篤志家社長に現状を伝え返済を申し出たが、彼は頑なにお金を受け取らない。
「俺が死んだら、墓参りにたまに来てくれたらいいよ。墓掃除、適当にやってくれればいいからさ」
と言われる。
社長が死んだら、ジャパネットでケルヒャーを買って、年に一度は派手に掃除してやろうと思っている。(これはある女医の話で、内容は史実とは異なります)