池上彰的「わかりやすさ」

 映像的というか視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力前提で、これを伝えるためにはこことこことこのへん「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのリテラシー。それが視聴者側と共有されている限りでの「わかりやすい解説」というか。

 池上彰的な「わかりやすい解説」ってのはあれ、いまどきの「わかりやすさ」リテラシーに適応した文法・話法でこさえられとるんだろう、とはおも。

 映像的というか視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力前提で、これを伝えるためにはこことこことこのへん「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのリテラシー。それが視聴者側と共有されている限りでの「わかりやすい解説」というか。

 いくつかのその「おさえておけば」のポイント以外の隙間の部分はスカスカでも構わない。全体の「絵」としての「雰囲気」と輪郭程度がわかれば可。そのスカスカ部分の細部をいちいち詰めてゆくようなリテラシー(文字/活字ベースというか)はむしろノイズでしかない、という感じ。

 そのポイント同士の「関係」がどうかとか、隙間に別のポイントがたくさんあるのでは、とか、そうやって「絵」の「解像度」をそれこそピクセル単位な細部の個別具体を積み上げてゆきたがるような「わかる」リテラシーは文字/活字ベースのもので時間がかかるので「効率悪い」。

 だから「関係」≒「文脈」は後景化させてしまって、その瞬間その瞬間での反応ごとに「わかる」になる「絵」が明滅し続けるような。「コツコツ」「地道に」「積み上げる」ような過程や時間といった軸もまた希薄化してゆくわけで。瞬間だけバズればよし、それが持続可能wかどうかは関係ない、と。

 池上彰的な「わかりやすい解説」が入り口となって〈そこから先〉の勉強やしらべものに向かえるのかどうか。自前で個別具体の別の「ポイント」を構築したり隙間を埋める素材を集めたりする方向に意欲が向けられるのか。「解説」であり「概説」「総論」ではないから「詳説」「各論」につながらない。

 でも、こちとらなどの言う「概説/詳説」的なたてつけ前提の「わかる」自体、「時代遅れ」になりつつあるのかもしれんこともまた、〈いま・ここ〉の状況であるらしく。池上彰的、「10分で解説」的な「わかる」こそ主流であり「そういうもの」にすでになりつつある予感。