ずっとすわって授業を聞けるチカラ、その是非

 中学高校の頃からショート動画で育ってる子らが90分の授業ずっと座って聞いてられへんのは当たり前やし、そら映画かて早送りで観よるで、って話をしていた。それにいまは大学の学費も高い、親も昔ほどゼニ持っとらん、バイトせなあの子ら大学行かれん、そのバイト先見てみい、コンビニの店員かてワシらの時代のレジ打ちとちゃう、肉まんやらおでんやら何やようわからん機械やら荷物の発送やら、ようけ仕事あるわい。その仕事ぜんぶ覚えて短い時間にこなしてようやく一人前、そんな世代がショート動画観てしょうもない映画や授業は途中で立ってまうんは当たり前やで、って。


 本や映画は古くて長いものにウンウン言いながら向き合ってナンボ、授業で寝たりスマホ見たりする人間は根性が足らん、みたいなこと言う典型的な老害になってきている自分の胸に鋭く突き刺さってくる話だった。


 問題にすべきはタイパに走る「いまどきの若者」やそれを煽るインフルエンサーなのではなく、彼らがタイパに狂奔せざるを得ない情報環境や忙しさ、それを現出させている社会構造(ネット、人手不足…)であり、究極的には、あらゆる情報やサービスの速度と密度を無限に上昇させることでしか自律運動することができない資本主義世界システムそのものの問題なのだろう。


 90分じっと人の話聞いていれば、長いこと何かに向き合っていれば報われるほうがきっと生きやすい社会だと思うのですが、残念ながらどうやら世の中それとは違う方向に向かっているのですよね

 これと同じようなことずっと考えてた。たったこの10年間でも社会とか生きていくための難易度上がりすぎ。ツリーの最後まで四桁いいねついてることなんてなかなかないからみんな薄々同じことを思ってるんだろうな。 x.com/sei__jou/statu…

 90分の授業ずっと座って聞いてられへんのは当たり前、って言われても卒業して働き始めれば求められる集中力も勤務時間もそれ以前の世代と何も変わらないし、仕方ないと甘やかしても問題を先送りしてるだけでは?社会や資本主義がおかしいと言っても、ショート動画を禁止にできる訳でも無いし。

 しかししょうもない話背筋正して90分聞いとる真面目な子より、要点だけパパっと聞いてしもうてあとは他の事やっとる子のほうが往々にして仕事できる現代っ子なんとちゃいますかね(昔からそうかも知れないが)。

 耳はある程度「ながら聴き」できると思うし、眼も複数の対象を同時に「見る」ことできるだろうが、それがこと言葉が――話し言葉であれ文字であれ――が介在するとそれが難しくなるのはなぜだろう。もちろん、生体の器官として感知している情報を選択的に「見聞き」している、という「文化的」側面は当然あるとしても。

 将棋で一度に10人相手にする「十面指し」とかあるけど、聖徳太子の逸話のように、一度に10人が同時に話す内容を理解したり、本を10冊並べておいてそれを全部同時に読みつつ理解する、とかいうのは、普通はまあ、できないだろうし。

 話し言葉であれ文字であれ、いずれ言葉はそのような意味で「単線的」で「限定的」で、理解するためのリソースをそこにだけ集中させるような属性があるらしく。で、それは「意味」が介在するゆえの作用でもあるらしく。

 そこらを歩いていても、文字の書かれてある看板や貼り紙にまず意識が合焦してしまって「読む」が起動されるというのは誰しも普通にあることだろうし、それは雑踏の中での話し言葉も同じこと。それこそ外国に行った時にいきなり日本語が耳に飛び込んできた時の感覚を考えてみればわかる。

 オートフォーカス的に母語の言語にまず合焦して「意味を解読する」機能が瞬時に起動してしまう、何かそういう機能が単体アプリとして以上に基本OSみたいに刷り込まれてゆく過程があって、それが「社会化」であり、それこそ「文化」の裡に生まれてゆく過程ではあるんだろうが、それにしても。