脳に可塑性がある10代で、良い体験がないと、その後ハマりにくい。逆に10代で良い体験があると死ぬまで引きずる。ゲームなどの趣味で良く見られるけど、これたぶん異性にも当てはまると思う。10代で異性に良い体験がないから、性欲があっても結婚には繋がらず、女性を見ても良い体験の想起がない。
— 宇佐美潤 (@UsamiJun) 2024年5月23日
脳に可塑性がある10代で、良い体験がないと、その後ハマりにくい。逆に10代で良い体験があると死ぬまで引きずる。ゲームなどの趣味で良く見られるけど、これたぶん異性にも当てはまると思う。10代で異性に良い体験がないから、性欲があっても結婚には繋がらず、女性を見ても良い体験の想起がない。
タバコや酒が20歳まで禁止の話と同じで、異性への中毒回路が脳にないと楽しかった体験が沸かず、脳が興奮しないので、男はシラフのママ恋愛や結婚を考える。非モテの脱落とは、ユーザーエクスペリエンスの低下による脳の非中毒状態への復帰で、これが俺の良く言ってる幻想の破壊の中身。
つまり全世界での少子化とは、10代の男に性愛以外の事をさせて、性の悦びの中毒性から逃れ始めた状態だと思う。男の性行動は、性欲と幻想及び快楽の学習サイクルで回っていて、性欲が女性に受け止められて快楽が発生し、中毒サイクルが作られ、女性への幻想が生まれる。気持ちよかったからいいものだと。
で、このサイクルが回らなければ、女性は別に気持ちいいものでもない。女体は好きだが女性は嫌いというのはまだ幻想の記憶が残ってる人達の話で、今起きてるのは、中毒回路が形成されていない、女体ってそれほどのものか?って言う動き
残念ながら脳の可塑性が低下して中毒になりにくくなった20歳以降の脳で女性に触れても、大したものでもないなって評価になっていく。女体好きにもならない。それが東アジアで起こってる少子化の主体だと思う。
ごく一般論として、視点を引いたところから言うならば……
セックス(性交渉)そのものが過剰に前景化されてきてしまったことで、それが目的化・ゴール化されてしまったことと共に、それを含んだ現実のさまざまな「関係」や「場」について、それらが互いに絡み合ったところで実際に体験されざるを得ない日常におけるさまざまな局面もまた、全部後景化され、かつそれぞれがバラバラに分断された理解の仕方までもが付随してあたりまえのものになっていってしまった、という問題があると思っている。
まあ、本邦戦後の過程においてはそれは「恋愛」というくくり方でひとつのまとまりにされていて、それと性交渉とが必然的に紐付けられてしまうようになった、という現実理解、人間理解の上での弊害も伴いながら、ということになる。
「不純異性交遊」という語彙はあれ、もともと法律用語か警察用語かは忘れたが、要は「異性」との「交遊」つまり「関係」を持つことが「純」でない状態、つまり「不純」になることとは性交渉を伴うようなつきあい方である、という理解の上に成り立っていた。そう、性交渉には「純」と「不純」、言い換えれば許容されるものとそうじゃないものがあって、許容されるのは夫婦の間でなければ、そうなることを前提とした「関係」の上でしかない、ということだったのだ、いまさらながらに言葉にするならば。だから、「結婚を前提としたおつきあい」という、これまた今や古めかしく響くしかなくなったもの言いも、そういう下地の上に出てきたものだったろう。
許容された性交渉は「夫婦」つまり「家庭」の内においてしか成り立たない、というこの杓子定規は、もちろんその頃からタテマエでしかないことはみんな百も承知していたはずだったのは、つまりそれはシロウトの世間、堅気のものさしにおいて、という限定がついてのことで、〈それ以外〉の場合もまたあたりまえにあり得たし、何らか金銭沙汰と結びついたところではいわゆるクロウトの世間を下支えしている現実でもあったことは、世の中のもうひとつのあたりまえ、でもあった。
「家庭」を持つ、異性同士が「関係」を持ち、それを継続的に維持してゆくことを約束した上で成り立つ「夫婦」を単位とした関係は、再生産の単位でもあるから当然、あたりまえに子どもを産むことになっていたから、必然的にその前提に性交渉はある。あるけれども、その限りにおいて「子どもを産む」ための過程という位置づけしかタテマエの理解の水準では存在しなかったし、性交渉に本来的に伴う快楽の部分、もっと言えば生きものとしての人間本来の性欲に基づく領域については「夫婦和合の秘訣」とか何とか、また別の言い方で意味づけし、世間的な常識というタテマエの裡に納めておくようなものだった。
このへんの問いについては、年来懸案の「恐妻」論などにからめて展開せねばならないのだが、当座この場でのポイントだけを拾っておくなら、上のtweetでうっかり示されてしまっているような、「恋愛⇒セックス(性交渉)」というセットでの理解が一般化してしまったことによって、それは人が人として社会化してゆくまだ初期、いわゆる「若い頃」の成功体験がないことにはセットとして理解してゆくことすらできなくなっているのではないか、という問いについても、性交渉だけを過剰に前景化してしまった主に戦後の過程があっての弊害になっている、ということかもしれない。
「気持ちよかった」という体験は、主にオトコの側の射精をクライマックスとした快感に合焦したものになっている。かつてのキンゼイ報告が男女の性感の違いについて「科学的」に説明されたことによって広く本邦世間にも受け入れられたように、ならばオンナの側の「気持ちよかった」はどうなるのか、という問いもまた、戦後の過程でうっかり露わにされることになってしまった。
「おんなのつとめ」という言い方で表現されていたり、ある種義務的なニュアンスが濃淡別にして伴っていたのは、オトコの側にしても「夜のおつとめ」的なもの言いが半ば自嘲的にせよ共有されるようになっていたことも含めて、「快楽」「嗜好品」としてのセックスというのがいま考える以上に禁忌となっていて、まただからこそいらぬ幻想妄想ファンタジーの培養基にもなり得ていたらしいことと共に、何にせよ性的存在としての人間≒個人が互いに「関係」を結んでゆく際に半ば必然的に関わってくるもの、という認識を自然に穏当に持つことを妨げていたらしい、ということではある。まあ、いつものようにゆるゆる持ち越しにせざるを得ない、厖大かつ茫漠としたお題の一環ではあるのだけれども。