30年後の「ときメモ」学習・メモ&雑感

結局これも文芸の系統なのではないかと思います
1992年のエロゲが先ですけど、マップ(街)を徘徊してイベントを探し回る、てのがドラクエ以降の表現上のフロンティアだったのは間違いないかと

昔のあの文豪なら絶対ライティングしてるよな、とかなんとなく想像します

藤崎詩織はヒロインでコナミのイメージキャラでしたが
プレイヤーサイドからするとむしろ忌避キャラ・お邪魔キャラなんスよ
なお海綿体充血120%はともかく、
制作者も意図しない偶然からゲームの完成度が高いんで
PCエンジンミニとかでプレイおすすめです…

藤崎詩織攻略は海綿体どうこうよりも
戦国シミュレーションゲームにおける強大な敵将の首とりとか
ギレンの野望におけるジオン軍の勝利みたいなもんなので

自分(主人公)の育成ゲームですね。各種数値を限られた期間(コマンド数)で上げることを目標とします。
ときメモ1から派生したパワプロシリーズのサクセスモードでの選手育成や比較的発売時期の近いプリンセスメーカーの娘育成とゲームの本質的部分は大差ないのかも。

RPGとかでも「登場人物を動かす」人と「登場人物になって動く」人でゲームに対する意識が全然違うんですよね。理不尽な展開に怒るのは後者。


「初期のRPGがすぐ死ぬしコンティニューも出来ないのは、プレーヤーは主役じゃなくてパーティーの斡旋業者だから」という話を聞きました。

黎明期の簡素な線画のみのアドベンチャーゲームとか、それすらない文字だけのテキストアドベンチャーとか経由して、グラフィックが綺麗だ!グラが絵みたい(?)!という時代があったもんで。綺麗な絵でやることが美少女を描くというのが、非常に感涙なのです。むろんエロも発達(堕落?)しました。

少なくとも僕が知る限り「ときメモ」に関しては、育成ゲームの要素が強かったです。直球のギャルゲーみたいなものも(メモリーズオフとか)世の中にはありますし好きですが、やはりゲームはゲームとして育成要素や会話の駆け引き謎の追求がメインのものが多い気がします。

ときメモ』は恋愛ゲームというよりも、恋愛を趣向とする進捗管理ゲームですね。

ときメモはエロ目的じゃなくて、ゲームシステムが斬新かつ出来が良かったんです。
(毎週の行動でプレイヤーのパラメータが変化、それに応じて当時のテキストADV系ゲームではあり得ない数の雑多なイベントが発生、更にそこから最終ENDが導き出される)

]
海綿体はPC18禁ゲーの方でw

補足 爆弾について

出会ったキャラを放置すると傷心度が高まり、
爆発すると嫌われ者として
"全キャラ"の好感度が下がるというシステム

"好感度をマネジメントしつつ
意中のキャラとのイベントを発生させる"
というシナリオ分岐系やキャラ育成系のゲームに無い面白さに繋がったのです。

コンピュータの個人化、商業化の成功とドはまりなんですよね、その前後。この辺は紙の資料が意外に整理されてなくて異論だらけ、当事者がまだお元気多数という歴史化以前の面白さもあって、同時代人の義務感もあり一時期読み漁りました。

 恋愛ゲーもエロゲーもヘチマも、そもそもゲーム自体ほぼほぼアウェイな上、初代プレステ以外ゲーム機さわったこともない身で言うのもめちゃくちゃトンチンカンなこと言うとるかもしれんのだが……

 ここらで開陳されとる往時の記憶ベースのあんな証言こんな自白の類って、「恋愛」(それも「高校生活」における)に対するなんちゃって(笑)的感覚、ある種距離置いた相対化の感覚があって初めてハマれるようなものだったりしたってことなんでないん?

 例によってお題のごく断片くらいしか走り書きにしておけないけれども、たとえばあの「うる星やつら」や「らんま1/2」なんかの作品世界wにおける「恋愛」(的なるもの、その関係や場も含めての)の描かれ方とか。全部一定の距離感があたりまえに「ある」という前提で、描かれ仕掛けられ、そしてそれを当然のように理解されるもの、という完結系になっていたりしてなかったか、ということなんだが。

 少子化問題にしても、男女不問での非婚化にしても、そもそもそういう「つがい」になることの自明かつ当然の前提として「恋愛」が想定されるようになったから、というだけではなくて、そもそもその「恋愛」自体が (自明になった/させられた結果、という面もあるにせよ) あらかじめ一定の距離感と共にしか認識されなくなったこと、つまり自分ごととして認識できなくなっていたこと、というあたりがより根深い背景としてあったんじゃないか、とか、いろいろと。

 てか、そうなる以前の、つまりざっくり70年代状況下でのそういう「恋愛」ってのは、まさにガチのストーカー合戦みたいな表現でしかなくて、それは当時の「劇画」「スポ根」的な話法・文法とシンクロもしていたわけだけれども、でもそういう「恋愛」の語られ方そのものに対する「(笑)」的な距離感こそがあたりまえになっていったことで初めて成り立っていた「おはなし」世界、ってのが、80年代状況ならではのものだったってことは、それこそ高橋留美子的なるものに最もわかりやすく代表されたような、「ギャグ」と「恋愛」のなだらかで当然のような融合で成り立っていた〈リアル〉認識が同時代感覚を制覇していったことを思い起こすだけで十分だろう、と。

 「愛と誠」的な、ストーカー的暑苦しい勘違いエクストリーム大正義、な「恋愛」認識がまかり通る世界があって初めて、高橋留美子的な世界――「ギャグ」と「恋愛」の当然のような融合で成り立つ〈リアル〉認識、もあったってことなんだわな、いまさら言うまでもないことだけれども。

 あ、あとその「海綿体担当」wの部分、つまり生身の性欲という〈リアル〉をどうそれら「恋愛」の〈リアル〉と切り分けながら対応、処理してゆくのか、というあたりのことも当然、含まれてくるお題なわけだけれども、それはまたものすごく厄介かつ厖大な話にならざるを得ないので、またゆるゆるとあらためて。