「民度があがった」という認識、その功罪

 時代が変わり、世代も変わって「民度」があがった、野蛮な習い性は薄くなった、という論。そういう事実が体感と共にあることを認めながら、しかし同時に、それが何やら別の不自由、考えなしの現状肯定の気分を漂わせながらの場合が少なくないことが、ずっと気になっている。

 現状を肯定的にとらえることは悪いことではない。何を見てもネガティヴに否定的にしか見ることのできない、同じく少し前まで自明にあったある種の知識人的な偏りにどっぷり足とられてしまうよりは、少なくとも常識・良識の失地回復のためには風通しよく、健康的なことだとは思う。

 ただ、ここはそういうこととはまた別に、なのだが、その「民度のあがった」現状、言い換えれば「文明化の度合いが高くなった」ということでもあるらしい、その本邦同胞の現状について評価し、称賛する気分の中には、当然、それとは違う「野蛮」で「文明の度合いの低い」少し前までの自分たち――その中に他ならぬ自分自身が含まれているかどうかとは別に、自分事としての自分たちが当然のように想定されている。それは、現在のような「民度があがった」に至る以前、それまでの過程と現在とを、自分たちごと関係のないものとして切断してしまう効果をもたらしもするだろう。実際、そのような「切断」「分断」の節理に対する自覚せざる欲望は、さまざまな局面、異なる位相で、しかしある程度横並び、同時代的な気分の裡に鈍くはらまれている。

 「歴史」に対する自省、留保といったことを言えば、たちまちある種の決まりごとのような言葉やもの言いの系に流し込まれて、本来きちんと可視化して素材化しなければならない問いまでもが、あっという間に神隠しにあったように見えなくなってしまう。だから、そのような系から慎重に距離を置く処置や自らの言葉やもの言いにいちいち施しながら、ものを言ったり書いたりしなければならなくなってもうずいぶんになるけれども、そしてここでもまた、その難儀は深くからみついて離れないのだけれども、しかし、言っておかねばならないと信じるのは、そのような「分断」の節理に対する欲望が、とりあえずは「民度があがった」と評価することもやぶさかではなく、何より日々の生活実感としても常識的なレベルで共有し共感され得るだろう〈いま・ここ〉の現在に対する認識を、初手から視野狭窄なものにしてしまうらしいことだ。

 違う言い方をするなら、その「分断」によって、〈いま・ここ〉の向こう側、切断された過去――それを「歴史」として同じ語彙でくくってしまうことも含めて、そのような過ぎ去った時間の裡にあるかつての〈いま・ここ〉を、今の生きてある自分たちの現在と全く関係のない別のものとして、いわば勝手に整理し処分し、「もう関係のないもの」という箱の中に一緒くたに放り込んで忘れてしまうということになる。つまり、経緯来歴と共に過去を、言葉本来の意味での「歴史」を〈いま・ここ〉の自分たちとの関係で認識し、理解し、「わかる」というモメント自体があらかじめ失われてしまう、そういう効果をももたらしているらしい、ということだ。