教科書には未だもちろん載らず、同時代〈いま・ここ〉の報道やメディアの舞台にも、なぜか表だって言語化されず、だから本当のところは誰も確信持てないのだけれども、でも、何となく「そういうことらしい」と感じるようになっている現実の水準としての「外国勢力の工作」と、それを語る話法について。
その、何となく「そういうことらしい」と世間一般その他おおぜいの最大公約数の気分として感じるようになってきた過程自体が、すでに〈いま・ここ〉地続きの経緯来歴――言葉本来の意味での「歴史」、殊に現代史と雑に言われてきたような〈まるごと〉の過程なのだが。
いずれにせよ、われわれは常にそういう〈まるごと〉の「歴史」を、〈いま・ここ〉として生きているらしい。そして、そういう〈まるごと〉の「歴史」を、穏当な言葉やもの言いを介して言語化してゆく仕組みも、どのような社会生活の水準、日々の暮らしの裡の位相においてさえも、未だ安定的に構築されていないままらしい。
〈いま・ここ〉と「歴史」がシームレスにうっかり連なっているあたりの手ざわり、みたいなものは、実は本邦人文社会系の〈知〉w的な言語空間においては疎外されたまま、概ね「なかったこと」にされてきているらしいこと。特にここ四半世紀あたりはよりミもフタもなく〈それ以外〉に。
だから、われわれが「歴史」と口にし、文字として紡ごうとする、その瞬間から、本来最も身近で身の丈で〈いま・ここ〉から発する役に立つ〈まるごと〉の歴史は、われわれの認識の向こう側に飛び去ってしまう。日本語の語彙としての「歴史」をできる限り避けながら、その本来指し示されるべき生身の内実としての〈まるごと〉の歴史の相に、慎重に意識を合焦させ続ける宙づり状態での努力をそれぞれの現場でやってゆくしかない、とりあえずのところは。
それがどれだけ誠実で、精緻な仕事の積み重ねであろうとも、本邦人文社会系の言語空間・情報環境における、歴史「学」の界隈に対して、本質的に信用できないのも、まさにそういう構造にほとんど無自覚で鈍感なまま、あるいは意図的に意識の外に追いやったまま、のところである。マジメで折り目正しい(とされている)歴史「学」界隈ってのを、本質的に信用でけん/しとらん大きな理由のひとつ。
雑な言い方は例によってなのでご容赦だが……
たとえば戦前、大正末から昭和初年あたりにかけての頃、当時の同時代の〈いま・ここ〉における「アカ」「主義者」の語られ方の背後に見え隠れして/させられていた「コミンテルン」「ソビエトロシア」など「外国勢力の工作」のイメージ、とかと同じハコのお題、かもしれない。
実際にモスクワのコミンテルンからの「工作」が入っていたことが、歴史的な事実としてわれわれの認識に正面からとどめられるようになったのは戦後のこと。戦前の時点だと、それこそ今で言うような「陰謀論」(当時はそこまで明確に、陰謀論的な想像力とそうでないものとの間の線引きができなかったとはいえ)にとどまらざるを得なかったものが、「事実」として認証されるようになって「確かな歴史」の側に組み込まれるようになった。
そういう意味で言えば、「共産党」「アカ」「左翼」にまつわる想像力もまた、そのような事実認定・認証の過程と相関しながら、「確かな歴史」の側にある部分ごとに組み込まれていった経緯が、すでにそれ自体も〈いま・ここ〉の〈まるごと〉の歴史の相としてあったりする。たとえば、あの伊藤律スパイ説の去就など、これまでのそれら「共産党」にまつわる「確かな歴史」に組み込まれてきた経緯をまつわらせている、さまざまな具体的な事例を想起してもいい。
それらの「背後」にある/あったとされてきた「外国勢力」の内実もまた、「モスクワ」「コミンテルン」「ソ連」などといった単一の相においてだけでもなく、さらにそこにもまた、さまざまに分節し、分解され得る想像力の枝がいくつも重なりあいながら戦後の過程で加わってゆき、そしてそれは情報環境の複雑化とそれに規定されるわれわれの大衆社会のありようがさらに濃密に、難儀に変貌してきた過程と手に手をとっての同時代的事象でもあったのだが、いずれにせよ、それらも含めて全部まるっと常に〈いま・ここ〉の〈まるごと〉の歴史の相として、常に揺れ動き移り変わりながら、われわれの現在としてあり続けてきている。
思えば、少し前まではそういう「外国勢力の工作」の主役は「北朝鮮」であり、その係累としての「韓国」だったのが、ここ10年くらいの間に「中国」が一気に主役の座に躍り出てきた印象ではある。もちろん戦後このかた長年そういう役回りの一角を果してきていた「ロシア」も、陰に陽に未だ存在感は示してはいるけれども、ウクライナ侵攻以来、新たに一気に加わったさまざまな要素によって、その「ロシア」もまた、これまでとは違う解像度、違う奥行きでもって新たな「外国勢力」の役回りに装いを変えつつある。
一方で、「アメリカ」というのも戦後から高度成長期いっぱい、その少しあとくらいまでは、そういう「工作」の役回りをそれなりの存在感で果してきていたのだが、冷戦崩壊以降はその輪郭が良くも悪くも崩れてきたような。少なくともかつてのような「米帝」一択キャラではない、これまたその意味での解像度が上がってきたこととも関係するのだろうとは思う。日々供給されてくる情報量やその多様さを考えれば、「工作」主体としての「外国勢力」という意味での「アメリカ」の存在感は、中韓露などのそれ以外と比べてもケタ違いの解像度で本邦世間一般その他おおぜいの意識の銀幕に堂々映し出され、くっきりと合焦されていて不思議はないのだが、ただ、それがすでに「工作」する「外国勢力」という意味あいすら見えなくなってくるくらいに、本邦の自画像というかその他おおぜい水準でのセルフイメージ自体が、「アメリカ」像と分離して合焦しにくいほどに、なんというか、同じレイヤーとしてできあがってしまっているような印象もあったりする。
いわゆる「陰謀論」というくくりでの輪郭そのものもまた、このような状況の変化の中で、急速にぼやけるようになってきていて、その分、別の語彙が必要になってくることのあらわれでもあるのだろう、「限界」という冠をつけて、そのかつての「陰謀論」的な想像力の方向へどこか均衡を失した認識をスッポンポンにうっかり示してしまうような界隈への識別標識にし始めているところなども含めて、例によってまた、ゆるく要継続観察のお題ではある。*1