おんな(のこ)、のしたいことを許容すること・メモ


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小6でこのスタイルは羨ましいし、そりゃ人前でたくなるよ。10代の女の子、こういうの悪く言うおじさんは変なこと考えてるやつだし、おばさんは絶対なーんもしてくれない人だから無視していいよ、距離とったほうがいいよ。やれ。私はもっと早くスタートしてたらよかったって思うもん。

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グラドルさんも同じ意見で良かった。

きわきわ水着をきてお客さんと接近戦できわきわポーズとってるわけでもないしね、これ。子供にそういうのをさせるのは私もどうかと思うけど

でもこれ普通の水着だし、ステージに登って大勢の人の前に出たいと思うのは芸能を目指すものにとって当たり前にある気持ちだよ。それを邪魔する意見は酷いと思う。

水着だからって脊髄反射で卑猥だと騒ぐほうがほんとどうかしてるんだよね。

子供の水着姿がダメというなら、海やプールや学校授業でさえダメになるし
子供用の水着を売るための広告でさえダメになってしまう。

 (おんなの)「子ども」に「こういう格好」を「させる」こと、という一連の解釈のコード(みたいなもの)を、自動的に発動する世間一般その他おおぜいの「そういうもの」化した意識の習い性そのものが、すでに複数化してきていることの、あるわかりやすい局面であり、事態であるのだろう、という印象。

 「させる」からやっていること、という解釈からして、もうあたりまえに共有されにくくなっている。「させる」のは「おとな」であり「親」であるはず、そうに決まっている、ということでもなくなっているわけで、その「子ども」が好んでやっている、自分の意志でやっている、という解釈の幅が拡がってきて、むしろそちらの解釈の方に「そういうもの」という常識的な範疇が寄り添ってきているかと。

 もちろん、その「好んでやっている」ことと「自分の意志で選択してやっている」ということの間の距離というのも、めんどくさいことを言えばあるはずだし、同時にその「意志」による「選択」というのも、果たしてどこまで穏当に幅を持たせた選択肢の中で選び取ることができているか、といった系の問いもまた。

 ただ、それらをひとまず措いておくとして、「子ども」の意志と、保護者である「親」の意志、そしてそれら「親」も含んだ世間一般その他おおぜいの「おとな」としての意志、のそれぞれの間の距離やズレみたいなものは、それらの前提にこれまたそれぞれある社会的な文脈でのありかたの違いなども含めて、この場合、必ず立ち止まっておかねばならない問いになってくるだろう、とは思う。

 「こういう格好」というのは、まあ、ありていに言って「性的に見られる可能性がとても高い」格好、ということではあるのだろう。おんなのこ、であるから、その「おんな」の部分を「性的に見られる」ということなわけで、こりゃもうその部分にだけ機能特化で合焦してしまう設定になっている向きなどは、絶好の標的にしてくることは、難しく考えずとも予測できる。

 ならば、その「こういう格好」を、そのおんなのこが自ら好んで、やりたいからやっている、という可能性(実際、いまどきはそういうことなのだろう)との間の摺り合わせをどうするのか、ということになる。ひとまず「子ども」だから、という部分で、親でありおとなの側からの修正が入る、それも問答無用な強制のニュアンスも含めて、というのが、まあ、これまでの「そういうもの」として共有され、支持もされてきたたてつけではある。

 引用しているコメントについて言えば、冒頭の前者(属性は「グラドル」で、すでにそういう職業的な立ち位置で社会化している御仁、ということも含めて)は、「このスタイル」が羨ましい、つまり「子ども」ではあれど、あるいは「子ども」なのに、もうこんなにある意味完成されかかったような、そして今後の成長含めて考えればこの子の「個性」のひとつとして、社会化してゆく際の武器になる可能性も高いように見える、そういう「才能」として見るのなら、それをこの子が積極的に自覚して自分の制御に置こうとし始めていることはいいことだし、当然許されるべきふるまいである――まあ、ざっとそんなベクトルでの評価と許容になっている。

 これに比べて後者は、大枠で同じような文脈を共有しているにせよ、立ち止まって考えると、少しニュアンスが異なっているところもある。「子ども」にこういう系の格好をさせること自体には切り分けが必要だとは思う、「きわきわ水着を着て」「接近戦できわきわポーズ」をとるような状況でもないし、何よりこれは普通の水着の範疇だよね、という前提を持っていて、ほどくならば、この子の意志による選択だから、という部分よりも、むしろその背景というか状況自体との関係で、単なる水着ですら「性的に見られる」ことでだけ見てしまうような「そういうもの」感――それはすでに時代遅れで現在に即していないもの、に対する批評性を強めに出してきているように見える。

 「水着」の範疇として考えられ得るような程度のものを、状況としてもそのような「性的に見られる」ことを最前提に設定されているようなものでもない場所で、まして当人のおんなのこが自らの意志で、少なくとも主体的に好んでその場に出てきているように見える以上、従来の「そういうもの」という常識一択で否定されるべきではない――両者のコメントを敢えてまとめて公約数的に示すのなら、およそこんなところではあるのだろう。

 とは言え、そのような許容範囲ではあるとしても、「性的に見られる」ことはそれでもなおあり得るのも現実ではあるだろう。で、おそらくここから先がことの本質であり、問いとして言語化しておかねばならないことなのだろうと思うのだが、「子ども」であるおんなのこが、その性的存在としての「おんな」の領域の属性を自分のものとして早くから自覚するようになっていて、それを「個性」であり、今後社会化して「おとな」になってゆく過程での武器であり特性として「使える」ものとしてすでにある程度認識し、自覚しているらしいこと、そしてそれも含めて「好き」で「選択している」とまわりからも判断し得ること、つまり、そのような「子ども」がすでに平然と現前化して〈いま・ここ〉に織り込まれつつあること――ざっとこれらの脈絡に沿ったわれわれの社会に対する現状認識が今後、必要な問いとして提示されているということではあるのだろう。

 「子ども」もまた「性的に見られる」存在であること――それ自体は別に昨今始まった事態でもなく、制御のされ方はさまざまではあったにせよ、どんな時代にもあらわれ方は異なれどあったことではあるだろうが、ただ、それが平然と「平等に」公然化されるようになり、その「性的に見られる」ことを出自背景、家庭事情や出身階層などを問わず、どのような「子ども」であっても、そのような新たに「そういうもの」化しつつある基準に則して、存在しているだけで「性的に見られる」ことを受け止めておかねばならなくなり始めている。

 もちろん、「子ども」である以上、それをどのように主体的に、自らの意識と自覚とで受け止められるのか、という問いも同時にあり続けるし、その限りで「おとな」の、社会の側の制御の手立てが、日常生活の水準から政策的なたてつけを考えるレベルまで含めて、改めて考えられる必要は相変わらずあり続けるのだけれども(そのへんを一気に忘れてなかったことにする方向の議論もまた、増殖し始めている)、いずれにせよ、われわれ「おとな」の側と「子ども」との間の「関係」そのものが、これまでのような「そういうもの」任せにしておいては明らかにいらぬ難儀や弊害などがあちこちで勃発し続けることになる。たとえば、ある種の界隈が考えなしに振り回すあの「ゾーニング」という考え方にしても、このような現状認識を穏当に共有しようとすることからまず始められる程度の留保ができる「おとな」たちを作り直してゆくことと並行しながら作業しないことには、どこの誰がどのような立場や属性でそれを責任ある立ち位置で線引きするのか、という、理念を現実におろしてゆく際に必ず含まれてくる「実践」――まさに理想なりあるべき「正しさ」と思うものを現実に“applied“ にして/させてゆく過程だと思うのだが――の局面での考えなしに歯止めはかからない。

 

*1:あとでコミュニティノートもついていたのだが、どうやら数年前のあるイベントでの画像ではあったらしい、為念。