「文学」「全体」そして「科学」・メモ

 むかしよく言われていたのは、サルトルのような現代の文学者は人間や社会の「全体」を描くところに価値があり、専門分化した「科学」に対する「文学」の価値もそこにある、ということだった。マルクスが人気だったのと同じ理由だし、

 今から思うと、小林秀雄に始まって、坪内祐三福田和也とか基本的に文芸の教養しかない人が世間というか社会に物申す的な立場で活動していたことが奇妙に思えるのだが、それだけ社会の方もまだ幼かったのだ。この先は行動経済学会や哲学的自然主義の人たちにバトンが渡ることを望む。

 今から見れば「文学は全体を描けるという自信はどこからくるのだろう」と思う。ただ、社会の幼さというよりは、社会が複雑になりすぎて理詰めでは全体を見通しがたくなったという意識が、直感的に全体を見通そうとする文学者の価値を高めた、ということはできるだろう。


 まあでも、そうやって「科学」と「文学」を差異化しようという意識とか、社会や人間の「全体」を捉えるような切れ味のある発言をしなければならない、という文学者の自意識が空回りすることも多かっただろう。


 丸山眞男は、日本の文学者の政治評論は「非常に意表外で独創的か、でなければピン狂」のどちらかで、政治学者と同じ言葉で話せる人が少ない、という趣旨のことを述べている(加藤周一はその数少ない例外であると)。


 自然科学や社会科学を学び、その限界を踏まえて文学に行ったわけではなく、「文学者は社会や人間の全体を突くようなことを言わねばならない」という意識だけが先走った文学者はずいぶん多かった(し、今も多い)と思う。そういう文学者の自意識が薄れていることは、良いことかもしれない。