
https://x.com/tokophotoko/status/1850994620714426574
「女を買った」自慢を大きな声で話してて不快だったというポストを見て思い出した。昔、友達が男だけで東南アジアのある国に行ってそういう場所に行くことになり、いざ女の子と対面するとどう見ても未成年の女の子がきて超焦るし気持ちも落ち込むしで、言葉は通じないけども、美大生だった友達は、その子を座らせて黙々と似顔絵を描いてそれを渡して指一本触れることなく帰ってきたって言ってて。私はその人の絵が好きだったんだけど、その女の子も喜んでくれみたいだったよって言ってて(もちろんお金も払ったとも言ってた)、ずっと心に残ってる話。
一応の追記。友達は懺悔みたいな感じで話してくれたの。男達だけの旅行で面白半分で行ってみたら、そんな小さい女の子が出てきて相当ショックだったし、気持ちの持っていきようがなかったと。でも私は、その子が絵に描かれているところと出来上がった絵の自分を見たところを想像して、おぉってなった。
批判引用がほぼだけど、十数年前の学生時代にこういう事があったと聞いて(1990年初頭か)、それで昔からの友達の縁を切るというのは私はない。その行為自体を受け入れてるってわけではなくても。縁を切る人がいるならそれはそれでと思う。あと、いい話っていうんじゃなく、「心に残ってる話」なんですよ
こういう挿話、それ自体がひとつの定型になっていて、それは同時にボランティアとか貧困救済とかの現場における体験の語られ方とも地続きだったりするわけだけれども、「純真」で「誠実」で「善意」で「内省的」で、あとなんだろ、えい、何でもいいけどそういう「関係」と「場」に身を置いたことのフィードバックという体験、見聞を言語化してゆく際のあるひとつの「おはなし」的な文法、話法として、ある時期からこっち、おそらくは洋の東西をあまり問わずに、「そういうもの」として繰り返されてきているものなんだろう、と。
「女を買う/買った」という局面にだけ限定してコメントしておくなら、それがある時期までは決して「個人的」な行為としてだけ成り立っていたわけでもなく、何らか集団の共同性を背景にして初めて成り立つものであったらしい、というあたりのことが、少なくとも本邦においては、社会的な常識としてもう希薄になりつつあるらしいということ。*1 そしてそれは、「多文化共生」的現実が否応なしに日常に侵襲し始めている昨今だからこそ、まさに「文化」的ギャップとして深刻な事態をうっかり招き寄せつつあるかもしれないこと。
下半身にまつわる〈リアル〉を自分ごととして「だけ」納めてしまえるものと、いつ頃から、そしてどのような経緯でわれわれは思い込めるようになってしまったのか、という問い。いわゆる風俗店にいまどきの若い衆世代はすでに寄りつかなくなってきているということは、ここ10年足らずの間にあたりまえのように言われるようになっているけれども、そしてそれは「性」の「商品化」というそれ自体がもう陳腐なジャーゴンと化している現状において、「女を買う」という行為自体もまた、社会的な文脈からの歴史民俗的な水準も含めた記憶と引きちぎられ始めているようにも感じている。
ああ、これもひとつ、あげといた方がいいのだろうな。ここに描かれた「童貞」という〈リアル〉の内実も、そういう意味ではすでにあたりまえの共通感覚から遠ざけられてしまいつつある感覚なのだろうという意味も含めて。