
分野は何であれ「学問」を志したおんなさんがたにずっと感じていた違和感があって、それは人文社会系限定かもしれないのだが、つまり「論文」的な文体やその約束ごとなど、言葉や文字表現についての「そういうもの」にどうしようもない反感や疎外感みたいなものを抱かないのかな、ということだった。
そういう問い自体は男女不問のものだったはずで、他ならぬ自分自身それをずっと抱えてきた自覚はあるんだが、それでもやっぱりそういう世間に足踏み入れたまわりのおんなさんがたから概ね(無自覚にせよ)発されていた前のめり感、過剰な同調気勢みたいなものの異様さは格別だった印象がある。
いや、少し深入りして記憶を腑分けしてみると、それは自分の同世代のおんなさんがたでなく、それよりもう少し下、年代的に80年代半ば過ぎくらいからくっきりと前景化されてきた現象だったように思う。
思えば「女流」という冠がつけられて「作家」なり「学者」なり、いずれおとこ衆ホモソミソジニー世間の上澄みの渡世がもてはやされる現象はさらに古くからあるけれども、その「女流」をわざわざつける必要がなくなっていった経緯と、そのようなおんなさんがたの過剰な同調気勢とは同期していたのかも。
上野千鶴子の書き散らしてきたものが、どうしてあれだけある種のそういうケのあるおんなさんがた、「学問」ないしはその界隈由来の狭いけれどもそれなりの権威やエラさを「そういうもの」として担保してきたホモソミソジニー世間に、なぜか自ら望んでうかうかふわふわと足踏み入れてきてしまったような…
これ、考えてみたんですけど、男に出来ることは私にも出来るってタイプの人と、女性が女性のまま生きやすい世の中にするっていうタイプがあったんじゃないでしょうか?
はい、その双方が共にそれなりに機嫌良く生きてゆける世の中になればいいよね(*゚ー゚) てな風に何となく思うとりました。(甘かった)