「言葉というのは不思議なもので、これを道具として使い回せるようになってるがゆえにわれわれどうやら人間という、この地球上の生態系で極めつきにけったいで異質な生きものをやってられるくせに、何にせよ漢字ふた文字程度の間尺にくくられるような「大きな言葉」にひとたびなっちまったら最後、どれだけ普段便利に遣い回していてもその言葉の中身や内実について静かに省みて考えるということをしなくなる、ということがあります。」
「これは言葉一般というより、この日本語を母語とする環境というやつの問題なのかも知れませんが、その意味では「宗教」などはまさにその典型みたいなもの。たとえ話しことばで耳にしたところでたちどころにあの字ヅラが脳裏に合焦、「政治」ともども日々日常の暮らしの中じゃまずうっかり言及口外しないが無難、という合切箱の中に放り込まれておしまい、つまり「敬して遠ざけられる」というわけであります。このへんはどんな立場からであれ、ことこのニッポン社会で「宗教」に関わってこられた方なら言わずもがな、思い知られていることでしょう。」
「でも、だからこそ、ことは面倒なわけで、たとえば本当は素朴な信仰や信心、日々生きてゆく上でのよすがに関わる限りでの、言葉本来の意味での宗教に関わってくるような身のまわりのことがら、日々のできごとであっても、それを宗教の文脈でとらえたり考えたりできないようなフィルターがあらかじめ、この日本語環境にはかかってしまっているらしい。と同時にまた、それとは裏返しに、「宗教」という言葉でだけとらえる習い性ができてしまっているがゆえに、宗教以外の脈絡でそれを身のまわりのことがらなどにも視野を広げて考えてゆくこともできにくくなっている、ということもあります。いずれにせよ、そういう難儀がすでに根深くわれわれの日本語環境にはからみついてしまっているようです。」