
いつの時代、どんな社会でも、ニンゲンである以上、程度の差はあれど「そういうもの」の中で生きて暮らしてゆかねばならんのよね。
で、それはその時リアルタイムではなかなか意識できず、見えないもの、だったりもするのよね。
その「そういうもの」が往々にしていろんなワヤ、想定外のバグを日々淡々と仕込んでたりするのも、また「あるある」だったりするのよね。
じゃあ、だからそれはどうしようもないんだ、と言い切ってしまうのもまた、「そういうもの」に身をまかせることになってしまうのよね。
「そういうもの」を何となく察知してしまう、気づいてしまう、というのは、何もその人が偉いわけでも賢いわけでもなくて、日々の暮らしの日常の中で何かぎくしゃくして居心地悪くなってることのシルシ、ではあるらしいのよね、良し悪しとは別に。
じゃあどうする? に次はなるわけでね。
「そういうもの」を「変える」と考える、それもまあ、ある。そのために仲間を募る、説得する、それをやる人はいるのだろう。あるいは、自分ひとりでうまくトクするよう考えて動く。それもあるだろう。
だって、そもそもがニンゲンの歴史のこれまでなんて、そんなジタバタ七転八倒の繰り返しだったようだし。
ただ、仲間を募るにせよ、ひとりで動くにせよ、割と忘れられがちなことが、おそらくあって、それは勉強して「そういうもの」を見えてしまった(とすんなり思ってしまう)ような人がたなんかにより強く出る症状なのかもしれんけど。
ことばやリクツ以外の何ものか、の領分というか、そんなもの。
まあ、普通に言うなら「キ●ガイ」だったり「トンデモ」だったり「デンパ」だったり「宗教」「カルト」だったり、いろんな言われ方されてきたような、いずれそんな領分。
……ヤバいっしょ? そう、ヤバいのよ、「そういうもの」をうっかりどうにかしようとするのは。
普通の人、てか、最も穏当で良い意味での世間一般その他おおぜいの人がたはそんなことしない。しようと思うところまでいって、そこから先はそこそこで踏みとどまる。それは意気地なしでも何でもなく、イキモノとしての本能というか、あ、ここから先行ったら戻れなくなるかも、な予感ゆえらしくて、な。
「そういうもの」を維持して持続可能wにしてきているもの、その原動力のかなりの部分は、おそらくそういう生命維持のための本能的なものに担保されているんじゃないか、とおも。
ってことは、それを踏み越えるためには、どこかそういう本能に逆らうことにもなるわけで、な。
この世のものじゃなくなる、まともに相手されるものじゃなくなる、あたおか扱いされてそういう意味での「そういうもの」になる――まあ、「狂」ってのは、雑に言ってしまえば要はそういうことだったんだとおも。
……あの「丘の上の狂人」なんかも含めて。
ただ、ニンゲンかなしくもオモシロいのは、その「狂」ってやつにも時代による違い、社会のありように伴うあらわれ方の差、みたいなのが必ずまつわってくるものらしくて、な。
そして、そういう「狂」に対する世間一般その他おおぜいの側の「そういうもの」の変遷も含めて、な。
イキモノとしての生命維持のための本能ってのは、専門的な定義は知らんけど、何も食欲・性欲・睡眠欲といった医学生理学的なものだけでもなく、群れから離れないようにする、といったある種社会・文化的なものも含まれてるんだろう、とおも。
以前、まだ人並みにマジメで善意で、を払拭しきれてなかった若い衆の頃は、柳田國男読んでても、なんでこんなに信心や信仰に関わる部分にこだわるんだろう、てな印象があったんだけれども、何のことない、その社会・文化的な本能みたいな領域と「そういうもの」の関わりに合焦しとったんだな、と。
そのへんに何となく気づけるようになってきてから、それこそ佃煮にするほどそれまで世に積み上がってきていた柳田國男に関するあんな考察こんな分析の類にしても、割とすんなり腑分けして、この先限られた人生でわざわざ読まなくてもいいもの、を見極められるようになったような気がする。