
「現実」というやつ、ことわれらニンゲンに関する限り、目耳鼻その他この生身の五官はもとより、それ以外の第六感だの何だの、しかと自覚も認識もできないようなあやふやな領域なども含めて、とにかく全部まるごと総動員して取り入れるさまざまな刺激や情報の類を、えいやっとばかりにあっぱれ総合したもの、といった、いずれスパッと明快な説明一発で片づけてしまってそれでよし、てなシロモノでもどうやらないこと、少なくとも戦後本邦の「豊かさ」ごかしにあれこれこの世のよしなしごとを等価に平等に俯瞰して月旦する特権をうっかり手にしてしまったらしいこちとら世代のこの呪われた認識にとっては、いまさらながら言うまでもない。
かの自然科学のどうしようもなく屹立し、どこにでも立ちはだかる、まるでぬりかべのような牙城の偉容も知ったことかとばかりに嗤い飛ばすことのできると確かに思えた、その程度の生煮え上等な能書きくらいなら、昭和末期から平成にかけてのあの爛れたような人文社会系、つまりは「文科系」と呼ばれていたような、しかもかつて全盛だったあの私大三教科入試に象徴されていたごときそれぞれ中途半端に断片化と共に専門化され、まただからこそ同時に堂々と通俗化もされておよそまんべんなく自在に得手勝手に我田引水することも可能になっていった、そんなぞんざいな「教養」が煮え立っていたあの時代に、悲しいかなこってりと骨がらみに仕込まれてきています。だから、あらゆる眼前の事象、同時代の現実についてたちどころに言葉にせねばいられぬ性癖が未だなお、わが身を呪い返しているらしい。
ゆえに、「現実」を認識しようとする、その際におのれの生身の裡にどのようなからくりが作動しているのか、そのこと自体に意識を合焦してゆこうとするあたりが業としか言いようのない、すでに還暦も通り過ぎた無職隠居のこのていたらくなのですが、しかし、日々呼吸をしメシを喰い消化し排泄しながら天然の理によって生かされている、その過程を感知しながら、同時にその感知する過程をも頼まれもしないのにわざわざ言葉にし、その意味の水準へと投げ返しながら、二重三重に入り込んだ感知や認識の回路をさらに同時に作動させつつ生きる習い性を手にしてしまっているからこそ、虚実皮膜、現実と〈リアル〉の間のぶよぶよしたとりとめない領分もひっくるめて、この生身のあっぱれ生きている「現実」なのだ、という程度の前向きなあきらめを半ば信条として生きながらえる宿命に、開き直って引き受けるしかないという了見にもなれたというもの。
ただ、いまどきの若い衆世代、そう、ざっと30代くらいから下の同胞にとって、こういう類のしちめんどくさくも逃れがたいある種の「教養」によって刷り込まれた自意識の自覚というのは、すでにもうかなり他人ごと、ありていに言って「昭和」「戦後」に生まれ、折りから降って湧いた「豊かさ」にあぐらをかいて好き勝手な能書きや思い込みを気分次第にまき散らしながらうかうかと世を過ごしてきた、それはそれで結構なご身分でしたねぇ、と口もとのひとつもひん曲げながら吐き捨てられるしかなくなっている年寄り世代のやくたいもない繰り言としてしか響きようのないものになっているようです。
それはそれ、いつの時代も先に生まれ、世を生きてきた世代がその生の終わりにさしかかって引き受けねばならない後生からのありがちな批評でしかないと言えばその通りなのですが、ただ、それでもなおしぶとく立ち止まっておかねばと踏ん張ってしまう理由もまた、おのれがたまたまおのれになってきたこれまでの時代――社会でも世間でも、はたまた「現実」と賢しらに抽象化してもいいですが、いずれそのような〈リアル〉の連続体の裡を生身として生きてきたこと、時代の技術に裏打ちされて編み上げられていた情報環境をその転変と共に呼吸しながら現在に至ってきたこと、その経緯来歴についてあらためて、できる限りの言語化をしておくのがささやかな使命と思いなし、今日もまた。