
家事という家の中にいる誰かの手によってしか行われず常時行われていないと家全体が停滞する大変な仕事を、自分以外のほぼ全員は「家事なんてチョロいのになぜ母さんはいつも忙しぶってんだ」というマインドで捉えている。家事労働そのものの疲れに加えて、その事実が家事担当者の疲労を爆増させる。
— 田房永子(Tabusa Eiko) (@tabusa) 2025年8月12日
家事という家の中にいる誰かの手によってしか行われず常時行われていないと家全体が停滞する大変な仕事を、自分以外のほぼ全員は「家事なんてチョロいのになぜ母さんはいつも忙しぶってんだ」というマインドで捉えている。家事労働そのものの疲れに加えて、その事実が家事担当者の疲労を爆増させる。
視点が家事そのものではなく、家事担当者の態度へ向いているメンバーの数と家事担当者の疲弊は比例する。
「チョロいのになんで」は「俺が担当になればチョロいのに」という意味であり、現時点でその担当ではないことを表している。
その忙しい忙しいと言っている人がやっている事を実際にやってみてる感じがないよネ~ やだね ほんと
でもそういう発言が浮かぶ側の者は、そのままの視点で〝奥さん〟のことも見られると思う。立場的に。 永久に本当の意味での、母親が陥っていた(る)「忙しい」と口からこぼさないと体が動かないほどのあの極度疲弊をもたらす『THE家事担当者』という立場にならなくても一生を過ごせる。
専業の母親がいそがしぶってるけど、家事なんてチョロいじゃん というポストを見て、ちょっといてもたってもいられなくなり候すぎて書いちゃった
仕事をこんな低解像度で抜かしてバカにしてるようなお前が言えるような事じゃないだろ https://t.co/vGeXVIcglW pic.twitter.com/LhRl7SRKM4
— ボト (@botomeze) 2025年8月12日
仕事をこんな低解像度で抜かしてバカにしてるようなお前が言えるような事じゃないだろ
そうめん、を調理することは「家事」としての負荷如何、といったお題から、めでたく派生炎上していった結果のひとコマ。元ツイ主がすでにSNS世間では札付き有名人の倭フェミガンギマリ限界級日常エッセイマンガwの描き手であることも、まあ、ブーストかかる要因ではあったようだけれども。
「家事」が個別具体に即してうまくつぶさに言語化されていなかったことは、本邦一般的な「社会を語る言語空間」においての総論的前提ではあったこと、それは「日常」「生活」「暮らし」がそのような言語化のしくみから疎外されてきていたことなどにも関わる、本邦近代の言語空間&情報環境における大きな問題ではあるのは、まずひとつ確かなことではある。それは、たとえばかつての家政学が戦後の過程でどんどんその本来の意図(輸入ものであったことも含めて)と異なる方向に離脱して/させられていったことなども、それらの問いの裡にプロットされるべきお題になる。*1
で、それをちゃんと視野の裡におさめるようにそれなりにきづかされてきた経緯も、概ね高度成長このかたの本邦言語空間にはあった。そのように促していったプッシュ要因のひとつとして、いわゆるフェミニズム言説というのも、まず寄与していたことも歴史的経緯として指摘しておいていいとは思う。
ただ、ここで炎上したような「家事」の特権化、倭フェミ&ジェンダーバイアス大正義のイデオロギー(文字通りの)ありきの噴け上がり具合は、それら「家事」の言語化の暴走のなれの果てではある。そして、それが暴走上等になっているがゆえに、その反動として当然、「だったらその「オトコが家の外でやっている仕事」についての理解のクソ雑さはどうよ」という批判糾弾反論の類が雨あられと降り注ぐことにもなるわけで、かくて、SNS世間では近年いくらでも拝観できるようになっているあの「ツイフェミ」VS.「アンフェなホモソ&ミソジニー」の不毛な対決が、ああ、すでに親の仇よりも見慣れてしまった構図とありようとでみるみる展開されることに。
ここであたりまえのように想定され描かれているような「オトコが家の外でやっている仕事」というのは、概ねホワイトカラー系を想定した勤め人のそれであり、その限りでは戦後の高度成長以降に「そういうもの」化して/されていった本邦の「仕事」のイメージに忠実な「おはなし」化でもあるだろう。その意味で「サザエさん、かよ」というツッコミも、まあ、あたってはいる。
農業水産業などの一次産業従事の半径身の丈+α程度の規模での自営系、あるいは小規模な商店などのざっくり三次産業系従事者でも同じだろうが、そのような「はたらくオトコ」が「家庭」と全く切り離されたところでしか意識できないような形態ではない「仕事」というのも、こんな時代であってもになお、世の中あたりまえにいくらでもあると思うし、そのような現実に対する想像力を穏当に抱いておけるのが、まあ、「おとな」というものでもあるはずなのだが、いざ「社会」のことを「(マジメにそのように)考える」というモードに入ってしまったが最後、その「仕事」や「はたらく」ことについてのイメージが、なぜかそれら勤め人系で「家庭」から切り離されたところ――「会社」と称される場所での営みで、しかもそれは「家庭」からはブラックボックスのまま言語化されていない、という状態があたりまえに合焦、結像されてしまうものになっているらしい。
それは、「家事」に代表されるような「家庭」における「はたらく」と全く同じような意味で、どちらも共に、その個別具体に即してうまくつぶさに言語化されていなかった、ということの裏表なのだと思っている。
「家庭」からその外での「はたらく」が見えにくいままだったことは、その外で「はたらく」側からもその「家庭」の中での「はたらく」が見えないままだった。それは先に触れたような意味で、「日常」「生活」「暮らし」といった「そういうもの」化した現実の水準が、その総体〈まるごと〉としても見通せるようなしかけがうまく作られていないままだったことと共に、そのそれぞれの局面――「家庭」であったり、その外での「仕事」であったり、それぞれがそれぞれの役回りで関与してゆくいずれ社会的な場所においてもなお、そこでの「はたらく」の言語化はうまく開かれないまま、結局は「公共」の言葉やもの言いには反映されてゆかないものだった、ということになる。
そのような大きな、どこか漠然とした「そういうもの」のまま推移してきた経緯来歴がある、われら日本語を母語とする拡がりの裡での「現実」を公共財にしてゆくたてつけの上で、「家庭」の中であれその外においてであれ、いずれ大きな〈まるごと〉の「社会」であり、その意味で正しく「世間」と言いなすのがよりしっくりくるような拡がりにおける、まさに人それぞれ各人各様の生の道行きで眼前のものになる「はたらく」ことの〈リアル〉については、それぞれに区切りが設けられたたてつけの内側で「そういうもの」としての言語化しかされてきていなかったらしい。
だから、ことは男女間の問題だけに限って語られるべきものでは全くないし、専業主婦がどうこうでももちろんない。〈まるごと〉の「社会」、つまり「世間」という〈リアル〉に対する想像力がもはやここまで枯渇してしまったまま、われら同胞互いに無駄に無益にいがみあいながらそれぞれの〈リアル〉を、それも「正しさ」「正義」ごかしにぶつけあうしかなくなっているらしいこと、そしてそれこそがことの本質としての「分断」の深刻な現在でもあるということを、まず共通の土俵として認識しておくべきなのだろう、と。*2
……てなことをもっともらしいもの言いでそれらしく並べてみたところで、だったらどうすりゃいいん? というあたりまえの問い返しの前には、残念ながら無職老害化石脳のこと、実際にはほぼ無力のまま、大文字一般形での「役に立つ」提案のひとつも出せないていたらくではあるのだけれども。
なので、以下は、まったく自分ごとの書きつけ、走り書きとして。
「はたらく」姿が「家庭」つまり〈おんな・こども〉の側からうまく「見えない」のがあたりまえになり、「はたらく」こと一般のイメージとして「そういうもの」化していった背景は、もちろん戦後は高度成長以降の「脱工業化社会」と脳天気にもうたわれていた三次産業化によるホワイトカラー的労働の全面化が下地としてあるのだが、ただ、それだけで何となくわかったつもりになったまま(大方はそんなもの、になっている印象が強い)なのもまずいだろうと思うのは、たとえばそれ以前、戦前から続く「賃金労働」という「はたらく」のありようがそれまでの「はたらく」の〈リアル〉とどのようにズレたものとして認識されていたのか、あるいはまた、社会的な存在として表沙汰にはなっていないたてつけだった〈おんな・こども〉にとっての「はたらく」は、おとこのそれとどう違うものとして、あるいは地続きとして認識されていたのか、それはあの「シャドウ・ワーク」といった翻訳カタカナ術語のもっともらしさごかしにひっくるめられてきたのとまた違う文脈と意味とにおける「世間一般の「公共」的な意識の銀幕の上には、良くも悪くもうまく合焦されることのない「そういうもの」としての「はたらき」」ではあったかもしれない可能性、いわゆる「水商売」や「裏稼業」などとくくられることもあったようなそれら「もうひとつのはたらき」の領分の〈リアル〉と、それがどのように世間一般の「公共」的な意識の裡にそれなりに折り合いのひとつもつけて居場所を持っていたのか……などなど、さまざまな未だうまく可視化もされていないらしい問いにも繋がってゆく。 *3
