「無敵論理」のこと・メモ

 無敵論理とは。敵対言説に「差別者」のレッテルを貼る→そのレッテルを根拠に「差別者は歴史修正主義者と同じだから議論の必要はない」などとノーディベート、ノープラットフォームを宣言する→どんな批判が来ようが「差別者」と呼べば議論をキャンセルできる→無敵!これが文芸誌などに載っていると。


 そして、批判や異論を一切合切「差別者」の箱に放り込み、「トランス差別者は歴史修正主義者と同じだから議論など必要ない!」と無敵論理で突っ張っているのはTRAの皆さんですので、「慎重に考えるべき」という言葉はTRA側にこそ向けるべきでしょう。もはや期待なんかしませんけど。


 この無敵論理は、TRAのボスであるところの清水晶子先生が推奨されていることですので、ぜひよく吟味してください。

清水晶子先生の「フェミ科研と学問の自由」の講演 文字起こし
posfie.com

 無敵論理が強力なのは、相手(主に女性)を「差別者」と呼ぶだけで好きなようにボコボコにできることにあります。トランスアライを騙り跋扈するチンピラを観察すればそのことがよく看取できるでしょう。こないだジュンク堂に『美とミソジニー』を置くな!と詰め寄ったアライなどはその最果てです。

 「論理」なのか何なのか、正直、(゚Д゚)ハァ?……でしかないのだが、それはともかく。

 要するに、「キャンセルカルチャー」のその「キャンセル」を正当化し、かの界隈の内輪で「論理」化する能書きではあるらしい。

 古来、本邦ではこういうの、一発で言い表すいいもの言いがあった。

      問 答 無 用

 五・一五で犬養首相を射殺した際、青年将校が口にした(と言われている)やつ。もっともこれ、その後の裁判の過程などで実際とは全く異なり、例によっての新聞の「おはなし」捏造だったことが明らかになったらしてるようなのだが、それもまたともかく。

 この「問答無用」は、しかしいきなり切り札にしていいわけではなく、それまできっちり「問答」を、つまりいまどきの語彙にするなら「対話」や「議論」――かつてある時期までの本邦語彙としての「問答」とは本来違う部分が含まれているのだが、これもともかく(今回こればっか)、いずれそのような「ことば」と「主体」を介した「関係」、さらには一定の「場」を前提にしたやりとりがあった上で、最終的にどうにも合意や妥協、「落としどころ」が見つからなかった際の選択肢として、何らかの「行動」――多くは「問答」の必要としない位相、要はこれまたいまどきの語彙としてなら「あらゆる手段」、を選択肢として採らざるを得ない段階にもはや事態は来てしまっていることを宣言する、そういう情況判断のマニフェストであり、決意を表明する主体ごとの最後通牒みたいなものであった。

 だから、もちろん「論理」の外、「問答」の先の現実へこれから突入するしかないわけで、まあ、言わば ゴ━━━━(# ゚Д゚)━━━━ルァ!! と同じ内実、意味あいをはらんだ全身全霊のひとこと、であるはずなのだ、本来ならば。

 まあ、すでにかの蠱毒エリジウムの極北まで事態が煮詰まりきっているのが傍目にもあらわな倭フェミ界隈、それも「大学」だの「アカデミア」wだの、二郎系背脂どころでない脂っこさマシマシのトッピングまで雑味ありありないまどき人文社会系白濁汁のその表面にこってりとふりかけた仕上がりに湯加減よろしくどっぷり漬かりきって、主体もヘチマもすでにもう煮崩れて骨の髄まで溶けかかっている人がたのこと、 言葉のようなものをおはじき遊びのごとく並べてみせようとも、そんなものは所詮、その煮詰まりきって泡立つばかりの寸胴鍋から絶えずたちのぼる朦々たる湯気と選ぶところなく、世に生きるまっとうな生身を抱えた世間一般その他おおぜいの五官には外道なケモノ臭紛々、まともに口にできるようなものでないこと言うまでもない。

 「キャンセル」を仕掛ける側のその「問答無用」の「正義」というやつが、それを交通可能な「ことば」にすることを自ら拒否して「行動」だけを唯一の選択肢として固定してしまうのは、ありていに言って永続「宣戦布告」の交渉拒否を常態化するということなわけで、なるほど、ならばよろしい、こちとらもそれなりの対応を遠慮なくさせていただく、しかない。

 あれ? こういうのを「永久革命」とかって言うんだっけ。(きっと違う)