むかしつきあってた本 (のもたらす自己羞恥、のようなもの)

 書棚の本の並び方にも、その時その時の違いがあって、それは自分自身でも普段は意識していないのだけれども、でも意識的に何か整理しようとして変えた際だけではなく、何かひとつの仕事に関わっていたり作業をしている中で自然に入れ替えているうちに、少しずつそれ以前の配列というか並び具合と変わってゆくようなことは常にやっているらしい。

 図書館なんかだとおよそ論外、必ず元の書棚の定められた場所に戻す、というのが鉄則になっているから、こんなのはデータベースとしてのまっとうな書籍管理の仕方からして初手からレッドカード、本を扱う資格などない、と判断されるのだろうが、でも、そういうきっちり管理された書棚でない野良の書棚で日々起こっていることは、そういう論外な配列の変更、日々少しずつつきあってゆくうちに何となくそうなってゆくという、まあ、何というか、半径身の丈の間尺で日々暮らしながらの生身の人づきあいで互いに知らぬ間にしゃべり方や口癖、何なら身のしぐさなどまでよく似てくるという、夫婦や恋人同士のつがいでのよくある不思議、みたいな感じではある。*1

 そう考えると、書棚の本たちとのつきあい方というのも同じようなもので、おのれの日常のココロのありようやそれに伴うさまざまな動揺、微妙な揺れみたいなものを少しずつ反映してくれているのだとしたら、書棚というのは確かに、それはそれである種の鏡みたいなところはあるのだろう。

 で、そういう日々の配列の改変、少しずつそのこちら向きの相貌を変えてゆく書棚の中 (そこに入り切れていない床やら何やらそこらに雑然と積み上げられ、また崩れて散乱しているその他おおぜいの本たちはとりあえず別にして) で、ずいぶん長い間そこにあることに気づかないままだった本、というのも見慣れた中にまぎれるようになっていたり。何かの拍子にその存在に気づいて、しかもそれがはるか以前、どうかすると大学時代に買ってそれ以来ずっと身近にいた本だったりすると、何かこう、その頃つきあっていたオンナに何十年ぶりかでうっかり出喰わしちまったみたいな気恥ずかしさを感じてしまったり。なんなんだ、この感じ。


www.youtube.com

 オンナ(だけじゃないが)と違って生身の老化はしないから、そういう味気なさやそこから派生する自己羞恥みたいなものはとりあえず本からは感じないですむ。もちろん、表紙が破れてたり煤けてたり、めくったらめくったで中の紙面が日焼けしてたりはあるし、それを「老化」ととらえれば同じことなのかもしれないが、その本の中身、つまり紙面に印刷されている文字・活字の配列そのものが別のものに組み換えられていたり、あるいは人がボケて痴呆化するようにおよそ意味不明な配列になっていたり、といったことはない。(あたりまえだ)

 ただ、ブツとして同じ紙面、同じ文字・活字の文章であっても、「読む」こちら側は確実に老化している。文字を読む具体的な速度や効率が衰えている、といった意味ではない。いや、それはもちろんあるのだが、それ以上に本質的なのは、かつて読んだつもりだったその「読み」が、いま現在読んでみるとかつてと全く別の「読み」となって、老化だか劣化だか知らないがそういう生身の現在として否応なく〈いま・ここ〉にある自分の身の裡に立ち上がってくる、そういう驚きが予想外に襲いかかってくるところ。

 「発見」と言えば確かにそう。「読む」こと自体、そういう生身の自分の〈いま・ここ〉との相関で成りたっている営みであって、だからそれは (そうとは見えない/思えないながらも)「上演」を常に含んでいる、という年来の持論をあらためて自己補強してもくれる体験なのだが、*2 だからこそそれは、同時にかつての自分自身に対する違和感や距離感、不信感といった感情、ありていに言って「なにやっとったんだ、おまえ」という、本来の意味とはおそらくちょっと違うベクトルでのある種の共感性自己羞恥や自己嫌悪を強制的に自覚させられ、とりあえずしばらくの間凹むことになる。

……で、そういう体験を、その「むかしつきあってたオンナ」的な本との遭遇の具体例として示そうと思っていたのだが、長くなるのでまた別途。

*1:こういう不思議、よく言われているし、実際「似たもの夫婦」なんてもの言いでよく「あるある」で納得される日常の現象のひとつではあるんだが、でもこれ、異性のつがいでのことが主で、同性の同居、それこそ寮や寄宿舎、あるいは昨今なら「ルームシェア」的な形で「一緒に住んでいる」場合には「似たもの●●」的「あるある」になってゆくんだろうか、とかいろいろと派生して問いが………例によって継続要審議のお題箱に入れておく。

*2: king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com