「正解ある世界」と「自由」の関係

*1

 いや、化学反応では高温で長時間反応させるなんてことはよくある話でしょ。


 「職員がいない間に火災が起きてはいけないので、そうした実験はできないんです」


 えー・・・でもまあ、化学製品を作る企業だから、きっと燃えやすい有機溶媒とかが多くて、火災にとても慎重なんだな。うん、仕方ない。じゃあ、ここの施設でなくてもいいので、どこかできる場所ないですか?


 「研究していいのはこの施設だけなので、他では無理です・・・他に方法がありませんか?」


 いや、他の方法を見つけるためにも、確実にできる方法から検討して、徐々に省略する方法を探っていくのが研究の定石だよ。改善方法を研究する前に改善方法が見つかったら超能力者だよ。


 「そうですよね・・・」


 結局その企業では私のアドバイスを採用することができず、開発はできないままに終わった。

 ここまでがエピソード・ワン。逸話としてのまとまりはここでひとつ、ついている。で、次は別の話。

 別の企業では、こんな話があった。


 「カッターは使えないんですよ。というより、ない。ケガするから」


 え?まさか?ちょっと切るだけなのに?じゃあ研究材料を切断するにはどうしたらいいんですか?


 「カッターを使える部屋があるので、その部屋で作業をしてよいかという申込書を作成して、許可をもらえたらその部屋で、安全手袋をしてからカッターで切ります」


 え?これをちょっと切るだけですよ?書類を作成して、提出しなければいけないんですか?


 「ええ、労災ゼロを目指していますから」


 私はゲンナリした。

 これがエピソード・ツー。

 いずれもよく読めばわかるけれども、それぞれの逸話の舞台となっている企業なり研究所なりは、この語り手にとってはアウェイの場所らしい。仕事としてそのような場所をいつも回っていて、それらの場所の外側からあれこれアドバイスしたり、何か改善点を見出したり、よくわからないけれども、まあ、そういう種類の仕事に就いているということなのだろう。俗に言う「コンサルタント」系のお仕事、ということになるのか。

 で、ここから先は、実はエピソード・ツーを踏まえた上での推測、ある種の仮説みたいなものになっている。なっているが、しかし語り口の連なり方からすると、まるでこれもまた実際に起こったことで、語り手が体験したことのように読めるようになっているあたりが、意識的なのか無意識なのかはともかく、なかなか巧い。

 カッターで切るだけなら、引き出しからカッターを取り出し、材料を目的のサイズに切るのに5分もあれば済む。しかし書類を提出して許可を得ないといけないとなると、まず、どの書式を使えばよいのかで戸惑うかもしれない。


 書式のことを知っている担当者を突き止めるのに30分かかるかもしれない。その人に書式をメールで送ってもらうのに10分、書式に必要事項(所属、名前、目的は何か、いつからいつまで作業をするのか)を記入して自分のハンコを押すまでに20分、


 上司にチェックしてもらって了解を得、提出する担当部局を聞き、何をするつもりなのか聞かれ、説明し了承を得るのに30分、カッターがどこにあるのか分からず、手袋もどう着用すべきかから説明を受けて30分、それからサンプルを切断し、作業が終了したむねを担当部局に報告して、ようやく終わり。


 「あ!ここのところ、もうちょっとこう切ればよかった!」なんて思っても後の祭り。もう一度同じ作業をしなければならない。5分で終わるはずの作業が、半日かかってしまいかねない。

 推測ないしは仮説の「かもしれない」を重ねてゆきながら、でも、確かにそのエピソードの「労災ゼロを目指していますから」という繁文縟礼、手続き主義の悪しき実例を踏まえれば、確かにこれら「かもしれない」事態も実際に起こり得るだろう、とは思わせてくれる。いや、実際これに近い事態はこういう職場じゃあり得そうだわなぁ、と。そのへんまで違和感はまず持たないだろう、普通に読んでつきあう限りは。

 ここから一気に転調、実際の逸話やエピソードから離れた「解釈」「解説」の意味づけが開始される。「研究」をうまく進めてゆく上での環境のあり方、といったあたりがポイントになっての展開。一般の業務、ルーティンの仕事の過程を管理してゆく発想と、それら「研究」に対する制御の視線はこのように違うはずだ、というのがこの語り手が重心かけて訴えたいことらしい。その「熱さ」は確かに伝わる。

 人間の精神的エネルギーは「限られた資源」で、1日に消費できる量は決まっているといわれる。研究は、多様な試みをいかにたくさん行うかが決め手。しかし、カッターひとつで手続きに半日かかるなら、それだけで精神的エネルギーを消耗してしまいかねない。私なら「もういいや」となってしまいそう。


 すでに「正解」が分かっていて、何をどうすべきか分かっている業務なら、そうした面倒な手続きでもよいかもしれない。しかし研究の場合は正解が分からない。もう少し少しここを削った方がよいかも。そうした微調整、あるいは大胆な改変を、迅速に行えるかどうかが研究の質と内容を大きく変える。


 労働災害を減らさなければならないのは研究でも同じだ。しかし、研究は自由な発想をどれだけ迅速に検討するかで、創造的な成果を出せるかどうかが決まる。カッターひとつ使用するのに許可が要るようでは、研究を窒息させてしまうようなものだ。


 すでに作業工程が明確な工場ならば、不必要な器具を撤去し、整理整頓を心がけ、事故が一切起きないように心がけることが大切だ。だが、研究では、ちょっと思いつきを早速試してみるというフットワークの軽さが重要だ。それに手続きと時間が必要となると、「めんどくさ」となってしまう。

 「研究」というもの言いで想定されているのは、おそらくこの場合、主にいわゆる理科系の研究開発的な現場なのだろう。そのような現場でこういう手続き最優先、繁文縟礼的なまわりくどさを「労災を減らす」という「正しさ」を名目として「正解」一択主義にしていると、そりゃ確かにフットワークの軽さやその場に応じた創意工夫などの余地はなくなってゆくだろうし、それに伴いそういうモティベーションもまた枯れてゆくだろう、それもまたわかるっちゃわかる。わかるのだが、しかし……

 日本企業からイノベーティブな商品が出なくなっている原因のひとつに、工場などの「正解のある世界」のルールを研究にまで適用し、研究を窒息させていることがあるかもしれない。事故は起きないが研究成果も出ない。こんなアホなこと、欧米でもやってるのかな?まさか、と思うよ。


 山口県を旅したとき、たまたま、少年兵として戦艦大和のレーダーに油を挿しに行ったことがあるという老人と出会ったことがある。そのときに聞いたエピソード。レーダーで敵機を察知すると、書類を作成して何人ものハンコをもらい、ようやく空襲警報を鳴らしたときには敵機が爆撃の最中だったという。


 そんなことやっていたら負けるわ、と、その老人も思ったという。いま、私はそんな気分。アメリカ、ヨーロッパはおろか、中国韓国でもそんなことはしていないだろう。そりゃ負けるよ。どんな国にだって。

 最後のオチにもってくるのが、こういう「本邦のやり方≒ガラパゴスor非効率&非イノベーティヴ」的な解釈による始末のつけ方となると、なんだ結局そういうオチありき、ありがちな「ニッポンもうだめぽ」(死語か、この「だめぽ」はすでに)論の十把一絡げかよ、と憎まれ口のひとつも叩きたくはなる。

 個別の逸話、エピソードの粒立ちを大事にする、それはいいのだ、とりあえず。で、そういう「おはなし」の積み重ねで何かを「わかる」にまで導こうとする、そういう「啓蒙」(これももう使われないもの言いか)の初志というのは、コンサル系稼業でなくても世のため人のため、何らかの大きな理解を広めてゆこうとする際には大事なものだし、尊重されていいと思う、これはマジメに。

 ただ、なのに、というか、だからこそ、というか、いずれにせよ最後のオチや締めの段で、十把一絡げな「ニッポンもうだめぽ」で片づけるのならば、それまでの逸話やエピソードの積み重ねもまた、読み手の印象においては勝手に立ち腐れてゆくしかなくなってしまう。そしてそういう手癖は、どこかで悪い意味での「出羽守」、本邦の〈いま・ここ〉の現実、そこに宿る〈リアル〉をどこかでとっとと手放して、大文字の「進んだ海外or外国」vs.「遅れたニッポン」の図式にとっとと流し込んでやっつけちまう横着と癒着したものになってしまっている、少なくともそう見える部分はあってしまう。

 そして、こういう理路、このテのリクツっていうのは、実は「リスクをとらない」いまどきの本邦若い衆へのある種のボヤきや、笛吹けど踊らずがあたりまえになった「ベンチャー」だの「起業」だのを煽って商売しようとする界隈の、もはや悲壮感あふれる絶叫調の「こんなニッポンじゃ未来はない」「グローバルなセカイに眼を開け」(何でもいいがとりあえずそんな感じのあれこれ)なセールストークにも、きれいに重なってゆくものだったりもする。

 手もと足もとの逸話、まごうかたなく本邦ポンニチの現在に起こっている事象ベースの「おはなし」を積み重ね、でも適当なところで一気にくくって何か教訓めいた「解釈」「解説」を引き出しておいて、そこから一気に「だからニッポンはダメ」という教義、原理に落とし込んで一丁あがり、というお約束。なるほど、こういう話法・文法に依った語りなりもの言いなりで、何かそれらに共感をうっかり抱いてしまうような界隈の気分を組織してゆくことが、そういう「コンサルタント」的な仕事の眼目になっているのかも知れない。

 「研究」は「自由」な環境でなければ、より良いものになってゆけない――その主張はいい。だから、何のためにそうなっているのかも説明できないような「正解」ありきの手続き主義や繁文縟礼の類は、「研究」の現場からはなるべく排除してゆく方がいい――そういう方向にもってゆくのも、それはそれ、ひとつの主張ではあるだろうし、その限りで尊重されていい。

 ただ、それは昨今、大学改革などの脈絡でやかましく問われるようになっている「研究」の自明の特権性、どうして「研究」だけがそこまであたりまえに「自由」(その中身はともかく)で、手続きその他の約束ごとも無視することを許されて、そのような環境に置かなければ「イノベーティヴ」で「独創的」で「セカイに通用するような」成果なり発見なりはなかなか出てこないのだ、といった能書きを一方的に聞かされなければならんのか、といういまどき世間一般その他おおぜいの不信感や疑念が、ほぼ同じ角度で刺さってくる話法・文法でもあったりするはずだ。

 ここで連ねられている逸話が理科系の研究開発系とおぼしき現場ベースであるから、その分あらかじめ割り引いて読まれるという面があるのだろうが、たとえばこれがガチの人文系や芸術美術系、それこそ「実用」「実利」をウソでも身にまとうことのできにくいような領域の現場ベースの逸話だったら、さて、どうだったろうか。*2

*1:こういうのもTwitter世間というか、TLに割とよく流れてくるタイプの逸話。「本邦ポンニチ企業or組織風土の不条理」編

*2:「研究」というもの言いがここでも悪さしている部分は否めないように感じる。たとえば、それを「道楽」「趣味」に置き換えても成り立つのかどうか。そうなると、ここで大事な役割を果たしているらしい「自由」との関係もまた、少し異なる様相を呈してくるところはあるのではなかろうか。「道楽」「趣味」で結果を出すようなことに、わざわざそんな「自由」な環境をことさらに要求することは、さて、必要になってくるのだろうか。