津久井やまゆり園の話で反響が大きかったので、僕の中にドス黒い感覚が生まれ植松思想が全く理解出来ないものではなく、理解出来てしまうようになった経緯をつらつらお話ししようと思います。一言断っておきますが、理解出来る事と共感する事は違いますので、その点ご理解ください。
— 考え中 (@shown_hid) 2020年1月10日
僕は臨床心理士の資格を持って障害者支援施設(入所)に入職しました。重度から最重度の方がほとんどだったので津久井やまゆり園とほぼ同じような施設です。最初は利用者さんの暮らしを守る仕事も十分臨床的だ、そう思って働いていました。しかしすぐに違和感はやってきました。
① 環境がまるでなってない
利用者さんが過ごすリビングのような場所にお菓子を収納してるので、お菓子を要求する利用者さんに引き摺り回されたり、お菓子を出す日に決まって不穏になる。別の場所で職員がお皿に入れて運んでは?と提案したら「自分で選びたいだろ、利用者さんにも人権がある」と。
② 適切な行動を教えられない
不適切な行動を適切な行動に置き換える関わりを提案したら「君は成人に教育や訓練をするのか?人権侵害だ」とか「飴と鞭で調教する気か?(応用行動分析を指してます)」と言われる。
③ 不適切な行動がさらなる不適切な行動を誘発する
拘束や体罰は虐待になる反面、力ずくで要求を通す事を覚えた(そして他の平和的な手段を知らない)利用者さんは力ずくでやってくる。職員は受け止めるしかないが、場合によってはかなりの実力行使をしないと双方の安全が守れない。
④ 気付けば職員が不適切な人材として評価される
そうこうしてるうちに職員も人間なので病み始める。何かがプツっと切れた職員から「もう知った事か」と実力行使を始めるが、他の職員が虐待だと自治体に通告する。職場の人間関係でマウント取るために"後ろから撃つ"奴も出てくる。
⑤ 気づくと脳がバグっている
一生懸命頑張っているのに気づくと上司に呼ばれて如何に自分が不適切な事をしているか責められる。気付くと利用者さんへの恨みが芽生えている。「こいつが余計な事するから」でも適切な行動を教えるのは人権侵害らしい。
⑥ 利用者さんから人間らしさが消える
そうこうしてる内に職員は病み疲弊し辞めていき、利用者さんは高齢化も手伝って出来ない事が増えていく。いや不適切な行動は新規で学習するので、適切な支援が出来ていなかった。僕は人間を人間らしくない何かにするためにいるんじゃない。
⑦ 救いは仲間
僕が完全におかしくならなかったのは、多少不謹慎ではあるものの、あらゆる事を笑いに変えて割り切って仕事が出来る同僚がいたから。クソ真面目に仕事していたら僕は檻の中にいたかもしれない。
⑧ それでも人が壊れていく
医療ケアが必要になり、手術の頻度が増えていく。「それ必要?」って手術を施設長と看護師が勝手に決めて行う。家族はNOは言わない。利用者さんの自己決定はゼロだ。結果、一人寝たきりになった。そして同じ手術をまた別の人にやってまた寝たきり。何人壊せば気が済む。
⑨ 職員も壊れるか割り切るか
ここまで現場が泥沼化したら職員が適応するには一つしかない「割り切る」。しかし人間はそこまで器用ではない。真面目な人ほど変な沼にハマる。"変な沼"なので自己弁護が出来ずに完全な悪者になる職員もいる。
⑩ こうして至る「障害者は不幸しか生まない」論
ここまでズタボロにされた職員が「植松思想」に至るのはごく自然な事で「植松思想」は彼のものというより構造的なものでしょう。
終わりに①そして僕は辞めた
僕も虐待の疑惑をかけられ市役所の人間に取り調べを受けた事もあります。僕が幸運だったのは、適切に自己弁護出来た事です。役所の人間も「◯◯しただろう」としつこく迫るので言語化能力が低いと冤罪くらいます。僕はここで辞めました。本気で危ないと感じました。
終わりに②そんな福祉の運営層は他人顔か被害者面
やまゆり園でもそうですが、こんな構造を作り出しておいて、運営側はその自覚は無く他人顔か被害者面をしています。僕は滅多に人格を否定するようなクソとかカスという言葉は使いませんが、福祉を回している層には「おぞましい」としか言えません。
最後
今の僕は療育という障害のある子ども相手の仕事をしていますが、子どもは伸びます。いや人は適切な環境と関わりがあれば伸びるんです。今の仕事では力ずくで何かしたり叱る必要すらありません。だって出来る事がどんどん増えるから。
いわゆる戦後民主主義的な、「人権」思想を「個人」の「自由」が自明の価値として下支えしている状態が日常の生活言語の水準も含めた言語空間として共有されるようになってしまった環境において、広義の「教育」「支援」系サービスを業務とする現場がどのように追い詰められて構造的に病んでゆくのか、ということについての、ひとつの証言であるのだと思う。
サービスをされる客体とサービスを提供する主体の関係だけでなく、その提供する主体の側の職場としての相互関係も共に、それら戦後民主主義的な言語空間に構造的に浸食されてしまっていること。それがここでの証言のような病み方、追い詰められ方を駆動していってるのだと思うが、しかしそのことをその場に属する主体の側からことばにしたりほぐしたりしてゆくことはまずできない。互いに同じ「人間」であり、その限りで「自由」な「個人」であるという前提は自明に強固であり、なのにその前提に首根っこおさえられたまま、職場の上下関係、指示命令系統を動かしてゆかねばならないという相反する論理の葛藤が常態化する。指示する方もされる方も、共に同じ「個人」であり、関係をつむいでゆく際に使われる言葉やもの言いもまた、それらの前提の上にしか成り立たなくなっているらしいから、言葉本来の意味での「関係」も、その上に成り立ち得るはずの「場」もまた、当然風通しのよいものにならない。具体的にヘンだと思ったことを改善しようとしても、それらを問題として具体的に認識する言葉やもの言いはすでにそこには立ち上がらないまま、あらかじめ事態を大文字で隠蔽してゆくような「人権」思想に代表される戦後民主主義的な話法・文法だけが、主体の制御を外れたところで半ば自動装置のように動いてゆくだけ。
そりゃ病むし、健康な生身の関わる場になろうはずがない。俗にブラック環境などと呼ばれる事態にしても、ごくおおざっぱに言えばどこかでこのような構造的な病み方を招来する意味で、人が日々生活せざるを得ない環境のありようとしては共通しているのだろうと思う。そして、別のところでも何度か触れてきているはずのあの「接客」というもの言いが肥大していった過程と、このような「サービス」という認識のされ方をする仕事のありようが知らぬ間にどんどん拡張されていった経緯とは、やはり大きく言えば同じ大きな同時代のからくりのもとにあるはずだ。
障害者であれ高齢者であれ、はたまた子どもであれ生徒学生であれ、いずれ何らかの「支援」なり「教育」なりといったモードで関わってゆかざるを得ないような対象≒客体を、どのような存在として認識してゆくのか、そのためのツールとしての言葉やもの言い自体がすでにそれら客体を個別具体として把握し、その上で具体的な関わり方を選択してゆくために役立つようになっていない上に、同じ言葉やもの言いがそれら関わってゆかねばならないこちら側≒主体もまた等しく、同じ言語空間に閉塞されてしまっている。共に生身の「個」であるような実存を見失ったまま、それら言語空間の自動的な駆動に従属するしかなくなっている不自由が、いまどきの「サービス」なり「接客」なりの切羽に最も深刻な重圧と共に現前している。*2