
俺、地方都市の塾講バイトで「これ」の子供を見てたけど、みんな無気力だし教えても何も覚えないし、親はこんな感じだからまあ、次世代は終わりだなと思った
本当にこの通りだと思います。
30歳から一年勃起して「俺はFIREする!」と宣言し、結婚もせず、友も無く、50台中盤で会社を辞めて「俺は経済的自由を手に入れた!」なんて言うよりも、
地方で残クレアルファードに乗り、若くして子供を複数人作る。生活はそこまで豊かではないが、両親に助けてもらいつつ、子供が家を出ていくまでしっかり面倒をみきる。その後、50台中盤には孫もできる。こういった人生のほうが圧倒的に豊かだし幸福度も高い。
平成まではそれで良かった。
では何故いま地方の若者が壊死寸前なのかという話をする。
端的に言えば「少子化」と「スマホ」 で、少子化及び地方からの人口流出により、そもそも競合が著しく無くなって、もはや若ければ仕事がある状態になってしまった。これでわざわざ努力する人なんていないのである
地方の子供たちはそれをよく分かっているので、地元からの脱出を志さない層はもはや何もしない。適当に遊んで、事実上機能していない高校受験で40から55くらいの公立高校に行く。そもそも人口が減っているのでまず落ちること自体珍しく、そもそも地方県の偏差値60以下は全部同じなので考える意味もない
さて、彼らは全く努力しなくてももう高校生までは上がることができる。そして彼らはまた、今度は勉強しなくても入れるFランの推薦か、勉強しなくても入れる専門学校か、普通に高卒で就職するかの3択だ。つまりそもそも「努力する」という土壌そのものが存在しないのである。
では、もう一つの要素である「スマホ」である。というかこれがほとんどではあるんだが、結局スマホの誘惑に勝てる人そのものが少ない。特に地方の中高生においては、イオンモール以外に価値のある「外」がそもそも存在しなくなった為、廃れた街を歩くくらいならスマホで友達とゲームしたほうがマシだ
サッカー部少年でさえ部活が終わったらさっさと家に帰ってスマホで友達と通話しながらゲームするのである。さて、女の子も同様であるが、ここでスマホというものが「外界」と繋ぎうることに注目しなければならない。アルファード息子とアルファード娘は、もう釣り合わないのだ。
「残クレマイヤンの子供同士お似合いだろ!」と思うかもしれない。しかし、残念ながらもう、残クレの息子は似た家庭環境で育った女の子を捕まえることはできない。なぜだろうか?
スマホが地方の女の子に「正確な価値」を提示してしまうからである
実は、ヤンキー君と付き合うしかないなんてことは無いとか、実は、イオンモール以外に娯楽があるとか、実は、子供を作らなくてもいい人生があるとか、実は、首都圏の男は金持ってる上にエスコートしてくれるとか、そういう情報の津波が来る上に、自分の年齢・容姿の「相場」が見れてしまう
つまり、10代後半、20代前半の「女」をわざわざこんなバカで金無くてロクに女の子も理解しないような地元の男に捧げる意味が分からなくなるのである。実際、都市の男からしてみたら、大抵の場合産地なんてどうでもよくて、顔と身体があればそれで勝負できる。
そういうわけで、スマホが繋いだ「外界」の基準によって正しい値段が付けられ、地元を見限る「女」と、スマホによって活力をスポイルされより強い男を延々と見せつけられて無気力化する「男」の悲惨な格差が拡大するのだ。これが令和の地方である。そして、この思想は既に中高生層に対してSNSを通じて浸透しているのだ。
ただでさえ少子化で競合もなく頑張る理由もない地方の若者達に、さらに地元の女をどんどん都市圏の男にぶん取られていくという、原義無気力地獄が完成したのである。これが令和だ。
ものすごく重箱の隅をつつく様な話かもしれませんが、田舎だと偏差値60以下の「進学校」があって、実際そこから国公立とか有名私大にも行くんですよね。学校の選択肢が狭い故に、校内の学力格差や生徒個々の志向の差が激しくなってる様に思える。高校なのに中学校みたいな。
さあ、個人の幸せを他人が決める事は出来ない
FIREするのも幸せだし、子供や孫に恵まれて生活するのも幸せだろう
幸せは他人が決めるものではない。自分で決めるもの
私は高校入学時に大学進学の学費出せないから(姉が4年制大学行ったから)高卒なって言われた時、幸福で幸せだった。早期就職希望ね。
なぜだろう
こうゆうひとたちは
庭でバーベキューしてる印象だし
仲良くなれるはずがない
と、思ってしまうのだ
娘が不倫して慰謝料で離散する事例がある家庭やんけ
残クレアルファードはスクールカースト上位じゃないと狙えないんですよ
このツリーは地方の若者の現状を正確に分析している。少子化で競争がなくなり覇気のなくなった男、スマホを通じて世界を知り、そんな男を相手にせず都会に行けば自分をより高く売れると悟った女。これでは若い女性が都会に流出するのも必然。
女子は都会で自由に生きるのが幸せな価値観が浸透したら、地方在住の親にとっては将来結婚して孫を作る訳でも近くに住んで老後を見てくれる訳でもない娘を育ててもってなりそうですね。特に秀でてもない頭と容姿の女子を大金かけて進学で都会に出すのは親からしたらリターンが見合わないのではと。
そうですね。男子の場合でも、地元で寝そべり族やって嫁を連れてくるわけでも老後の面倒を見てくれるわけでもないならわざわざ育てても…ってなりそうです。地方の出生率はこれからガクッと下がりそう。
スマホや少子化とか関係なく地方から若者は流出してますよ
むしろ高度経済成長期の方が割合が高いです
元々地方に競争はなく、競争したい人は都会に行ってたのでは。
むしろ地方の良さは競争が無いこととされます
よく競争に疲れた人が脱サラして地方に移住してメディアに取り上げられますよね
高度成長期以降の人口流出で親世代の人口が少ないので、流出する以前に子供の絶対数が少ないのは確かです。今の課題は流出する若者の男女差で、女性ほど地元を嫌って都市部に出る傾向があること。なお、田舎への移住者は珍しいからメディアに出るのであって、都会への流出の方が絶対数は多いです。
売買ということから市場原理で考えてみました
都市部への女性の流出が進み、現在は供給過多で価値が暴落し始めるフェーズですかね
当然買い叩かれるので、将来的には地元に戻ったり都市部へ行かない女性が増える流れになるんじゃないかなと思います
都会のキラキラが虚構であることが分かれば流れは変わってくるかもしれません。都市部に多い事務職もAIの普及で減ってくるでしょうし。ただ、古い価値観のクソジジイが地方でのさばっている限り、都市部への流出は止まらないように思います。
親の10年にわたる洗脳もスマホ1台で解けてしまう。
そもそも20代以下の男は自分の人生に嫁と子供がいる想定をしていないという話から始めないとこれ理論がまずダウンロードできない説あるか?
地方民に「情報」って一番与えちゃいけないモノでだったんですよね。そういった意味でSNSができた時点で地方は終わった。世界一幸せだった国ブータンは、国民が情報を得たことでただの貧国に成り下がりましたが、地方もそうなんですよね。
いろいろと〈いま・ここ〉世相からの、その裡に共に生きて棲んでいる世間一般その他おおぜいの側からの印象、反応として、あれこれ考えておくべき内容は豊富に含まれてある素材として。
ただ、それらとは別に、さらに引いたところで別途、考えておいていいことも、また。
こういう〈いま・ここ〉の身の丈由来の世間・世情についての「考察」「分析」言説の系譜というのは、古くは「文明批評」(ああ、死語だ……)とか呼ばれて、おそらくは新聞や雑誌という活字メディアの伸張に応じて必然的にコンテンツのひとつになってきたものではあるんだろう。同じ言語を共有している範囲での〈いま・ここ〉感覚の、主として身の丈で個別具体な散文文脈における言語化が、それら「マス」――つまり世間一般その他おおぜいを相手取った媒体においての大事な発信情報となってゆく過程。それらマス・メディアを反響板としてのとりとめないエコーチェンバーが編制されてゆく道行きでもあり、「社会」だの「同時代」だのといった〈いま・ここ〉感覚が「おはなし」として共有されてゆく道程でもあったんだろうが、まあ、そのへんのしちめんどくさくも茫漠とした大文字のお題はともかくとして。
「地方」「いなか」が対象化されているのも、そしてそれがある種の人間像、日頃何となく眺めて認知しているような、でも「自分(たち)」とは少し違う種類の暮らしぶりや、それに根ざした生活上の価値観や世界観、判断基準などを持っていると感じられる、そういう意味での「日常生活での隣人」像であり、それらを鏡として逆に「自分(たち)」の輪郭を確かめてゆくことにもなるような形象、でもあるらしい。
ということは、これらの言説やもの言い、それが「おはなし」として整えられてゆく過程も含めての表象の背後の、隠れた主語、主体である「自分(たち)」というのは、「地方やいなかではない場所(おそらくは「マチ」「都市」とでも呼ばれるような)」に生活し、若くして結婚し子どももいて、そういう意味での「家庭」をめでたく営むことができていて、たとえ自分(たち)ほど豊かではなくともそんなに気にせず、「実家」に象徴されるような地縁血縁一次紐帯系の逃げられない関係に、その恩恵含めてがっちりホールドされていて、そしておそらくそういう生活のありようのまま今後も「そういうもの」として生きてゆくような人生――「ではない」側の現実を生きている存在、といった感じになるのだろうか。
「いなか」(かつては「故郷」「ふるさと」などと概ね同義でもあった)から「出てきた」その結果としての現在〈いま・ここ〉がある、という自覚や現状認識は、「向都離村」感覚として近代化の過程における新たな多数派感覚として本邦世間一般その他おおぜいに宿っていったものではある。たとえ生活実態としてはそれらの感覚からかけ離れた現実を生きている身にとってさえも、何らかの切実さと共に憑依してしまったようなものとして。これまたもはや忘れられつつある大文字の語彙としての、あの「疎外」を引っ張り出しても構わないかもしれない。そのような意味では、その程度に連綿と引き継がれてきているらしい近代的「社会意識」のありようではあるのだろう。
ただ、大きな枠組みの「おはなし」文法・話法としては共通しているとしても、それでもなお、細部はそれなりに、かつさまざまに同時代的な要素の違いはちりばめられるものだし、何よりもそれに応じて「おはなし」の上演に際して宿ってゆく内実の重心も微妙に移り変わってゆく。
たとえば、かつての「向都離村」と異なり、いまどきのこれらの意識や感覚には、全身全霊で否定されたような「いなか」「ムラ」が生活実態としては失われている。同時に、それらと密接に結びついて、同じく絶対的に拒否されるものであったような地縁血縁一次紐帯系の人間関係のしがらみや疎ましさなどもまた、文脈含めての意味ではすでにないと言っていいだろう。「家族」であり「家父長制」などと偏った言い方もされてきたような「そういうもの」化して動かしがたいものに感じられていたものからも、戦後80年の過程でひとまず解き放たれるようにはなっている。めでたしめでたし、になっていて不思議はないのだが、しかし、ここに示されているようないまどきの「向都離村」的心性には、そんな一方的に脳天気な解放感は宿っていない。
自分(たち)と「違う」人間たちが、あるまとまりと共に、眼前の同時代を生きている。そしてどうやらそういう「違う」人間たちは、他でもない自分(たち)の感じているような不安や懸念、苦労や心労の類――「生きづらさ」とか昨今はひとくくりにされて片づけられるようなあれこれのもやもやなどとは無縁のまま、「そういうもの」として生きてゆけるもののように見える。
彼ら彼女らみたいになれるとは思えないし、またなりたいわけでもない。でも、ああいう人生、あんな生き方が現実に同じこの国の同時代に「ある」というのも確かだし、そして自分(たち)もまた、かつてどこかの時点であの彼ら彼女らと同じ立ち位置、同じ境遇にひとつところに生きていたような気もする。しかし、自分(たち)はそこから違う途を歩いてきて、そして〈いま・ここ〉がある。
それはそれ、これはこれ、互いに違う人生と割り切ってしまえばいいのだろうけれども、なぜかそうはなれない。
これが明らかに異物、それこそ外国人だったり異教徒だったり、とにかく初手から「違う」人間だと思えてしまうような存在ならば、また話は早いのだろうが、残念ながら彼ら彼女らはそうではない。同じ日本語を普通に話し、肌の色目の色変わらない同じ日本人同胞ではある。まただからこそ、こういう彼我の「違い」に早くから明快な裁断をしてしまえない、あいまいな現状がだらだらと続いてしまうようにも感じる。
差別だの分断だのと呼ばれる社会的な問題は、これまでも確かに本邦この世間にあったし、今もあると言えばあるのだろうが、ただ、それらもまた、あたりまえに前提にしていたのは、本質的な意味での「異物」「違う存在」が日常にいなかった本邦のそれこそ「同質性」(言い方ともかく)の高い社会のありようだったのであり、昨今言われるような「多文化共生」的な現実というのは、そもそもそれを具体的にどういう事態になるのか、どれだけ頑張って想像してみたところで、あらかじめ何らか「ガラスの天井」的に想像力の上限が決まっていてのお花畑でしかあり得ていないのではないか。
言葉はカタコト程度、やることなすこと直感的な違和感を喚起させられ、どう努力したところで理屈抜きに意思疎通ができないと感じさせられざるを得ない、そんな具体的な「異物」「異質な存在」が日常あたりまえに眼前にいる。それもたまさか遭遇するのではなく、半径身の丈ご近所に普通に徘徊し、日常生活の風景の一部になってしまっているという事態。「外国人」問題と呼ばれるものの、その根底に横たわっているのは、われら日本語を母語として「そういうもの」として生きてきた側にとっての「異物」「異なる存在」についての想像力のありようであり、その限界を介してしか当面、われわれは「外国人」を日常の裡に意味づけ、落ち着かせてゆく手立てを持っていないということになる。
……「向都離村」の話からかけ離れているようだけれども、でも、どこかで必ず通底はしているはず、と信じながらとりとめなく、でも、お題としてはゆるく続く。