20代から嫌われる氷河期ロスジェネ・メモ


 20代前半くらいの人たちが氷河期世代老害としてウザがってる傾向が最近加速してる気がするんですよね。確かに氷河期は色々厳しかったわけですが、今の新卒より手取りも多かったし可能性も色々あったわけで、バブル世代と比べて自分らが不遇だったという話は若い連中には通じないだろうな…と思う。

 これ上の人達は叩きたくなるだろうけど、平成生まれのオレらにとってはまさにこんな見え方してる部分はあるんだよな。生まれた瞬間消費税上がってバブルは終わってて日本が上がってく姿なんか一度も見てねーからな。 twitter.com/iikagenni_siro…

でもやっぱ氷河期世代が若者だったあの頃の「300円で食える松屋の朝定食の味噌汁で人生救われんだ」みたいなデフレには戻りたくねンだ。独特だったよあの空気感

 氷河期世代って親や先輩世代より自分らが圧倒的に不遇で、この落差と格差がキツさの中核だったと思うんですが、いま二十歳くらいの人らって親が氷河期世代だったりするんで比較して落ち込むような黄金時代の記憶をそもそも有してないんですよね。そういう連中からすると氷河期の気持ちは理解しづらい

 氷河期は確かに上層の勝ち組は一流企業とかのルートはあったが、今だって超優秀な奴なら一流企業も起業もありえる。ただ妬んでるやつは、いつの時代も「時代が悪い」で成功にたどり着けない層だと思う。

 少し気になるのは、20年前と今の労働環境や求人や選択肢の差、かなぁ。そういう意味では氷河期世代の方が不遇というのはわからなくもない。

 問題はそれを悪用して氷河期の将来の福祉カットとまで誘導しようとする悪い人がいるように見えることでしょう。

 氷河期世代が全体としてコロナで自粛叫んでいたかは分からないですが、Xでオタクやってる層は自粛叫んでた方でしたね。あの3年なんだったんだに「あの時は仕方なかった」と言うならば、それは氷河期の新卒時代とて同じことでしょう

 たとえ(バブル世代と比べて)自身が不遇だったとしても、恨み辛みばかりしか話さないようでは、20代前半ぐらいからの支持は得られないと思う。

 コロナがあったからね。氷河期世代とコロナであらゆる全てのことが制限された世代とどっちが大変か言われたら、うーん難しいですよね。その割には氷河期世代のほうは数が多いからメディアでは言論や共感が広がりやすいですよね。そこへの反発だと思いますね。

 親が氷河期で子が就活と学生生活がコロナで剥奪されるという2世代続けて失われた世代になるからね…少し上になると、バブル世代が親で子がリーマンから回復した売り手市場での就活になるか

 パラサイトシングルやニートワープア(ワーキングプアの略)、草食系男子、肉食系女子などのネットスラングが生まれた背景にはバブル崩壊後の日本経済の鈍化や少子化、結婚しない若い人の増加、就職氷河期が関係していると思う。

 そんなんネット上でそう思うだけでしょ
 氷河期が覇者で居られるのは数で押せるネット上だけ
 現実では鬱病寸前のワーカホリックしか見ないよ

 まー団塊の世代だけがイージーモードを歩んできただけで、それ以降の世代は良くてノーマル、悪いとハードモードってだけだと思います。
氷河期世代とZ世代どちらが不遇かどうかは、個々人のウザいという感情ではなく各種数値で判断すべきで、感情論で語るべきでないしそもそも悲観マウントがダサい。

「限界●●」というもの言い・雑感

 「保守」でも「リベラル」でも、それを自称し、またそう名づけることで何かはっきりするところもあると思えるからそうするのだろうが、でも、いずれその名前に本体をとられてしまって、そもそも求めていたはずの自分と世の中との関係についてのものの見方や考え方から逆に疎外されてしまうような人がた、ないしは界隈というのを「限界」と冠つけて呼ぶことは、さて、いつ頃から出てきたものだったろう。

 まあ、この「限界●●」の「限界」の解釈、一般的な定義とは違っているのかも知れない。ただ、自分としては、右と左、保守とリベラル、といった政治的な立ち位置をある直線軸でプロットしてわかろうとする図式があり、その上での両極に触れてしまっているような界隈、かつてなら「極右」「極左」と呼んで片づけられていたようなものが、それではしっくりこなくなったので新たなもの言いとしての「限界保守」「限界リベラル」的なものに置き換えられるようになった、という印象を持っているのだが。

 それは、ひとつの政治的な立ち位置として、あるいは思想のありようとして「極端」にまで触れてしまった、というだけではうまく説明できない、どうもしっくりこない何ものか、というのがある時期からそういう政治思想沙汰のあれやこれやに対して察知されるようになってきて、その違和感の部分を受け止める対応のひとつとしてそれらが「限界●●」と呼ばれるようになった、という風にざっくり理解していた。

 その違和感、しっくりこない何ものか、というのがおそらく問題だったのだろう。それまでのような左右両翼を設定して、その間の直線上に政治的、思想的な立ち位置を探ってゆく考え方、それはあくまで便宜的なものであり、しちめんどくさいそれらの議論を「わかる」に近づけるための方便だったと思うのだが、いつしかそれはあらかじめ「そういうもの」として「正しい」ものさしとして君臨するようになり、本来あくまでもナマモノであり〈いま・ここ〉の動態でしかないはずの「政治」までもが、あらかじめそのものさしを介してしか「わかる」にならなくなってしまっていたように思う。

 ここでもまた、本邦日本語を母語とする範囲でのその「政治」という漢字二文字の熟語が、近代以来のその内実の転変ごと、悪さをしているわけで、ほんとにこの「政治」という字ヅラから想起されるものが、「そういうもの」としてあらかじめ静態的、かつ外在的に「ある」になってしまっていることで、そもそも動態でしかない〈いま・ここ〉の現実において power をそれぞれが行使しながら、利害を調整して望ましい「状態」にもってゆき、「維持」してゆこうとする――まあ、そういうおそらく politics 本来の内実にあるはずの、常にpowerをbalanceしよう/させようとすることによって招来される動態の連続過程、といったニュアンスが割ときれいに抜け落ちてきてしまっているらしい。*1

 「限界」の冠をつけられるような政治的立ち位置というのは、そういう従来の左右両翼的な直線上のプロットでなく、むしろそのようなものさしをどこかで「越えてしまった」といった意味あいが付与されているらしい。「あ、これはもう別ものだ」的な、「ああ、そういうところに逝っちゃったのね」的な、はっきり言うなら「もう相手にしてはいけない」存在といった、エンガチョのしるしとして。あるいはまた、精神医学などで「境界例」「境界性」と訳されてたりする、あの「境界」(border) の語感なども、訳語としての正確さなどとは別に、ごく漠然としたイメージとしてどこかに反映されているのかもしれず。

 いわゆる「陰謀論」――その中身も昨今、急激に多様化、複数化して、それこそ「境界」が曖昧になっているみたいだが、何にせよそういう方向に振り切れてしまってたり、あるいは、昨今はこっちが多数派のようにも思うが、そこまで明快でなく何となく「陰謀論」的な風味や気配程度のものであっても、それらがすでに抜き難く漂い始めているような、そういう違和感。で、それは同時に、どういう基準や規範になっているのかは知らず、でもとにかく「さわったらあかん」という、彼岸に行ってしまったもの、になっているらしく。このへん、情報環境の変貌とその中でツールとして効きのある語彙やもの言いの使い回し方、などとも絡む問いにはなるはずなれど。

 「限界左翼(サヨク)」がはじまり、なのかな。ハッシュタグまでできとるので、ちとびっくり。「#限界左翼」

togetter.com

 まあ、例によってまた、パターナリズムだの父権主義的だのと、できあいの語彙やもの言いベタベタ貼りまくってハリボテこさえるお仕事に大方は没頭しているらしいけれども。

*1:ああ、そう言えば、銀行口座の「残高」が balance だったことを初めて知った時も、わけのわからない軽い衝撃があったなあ、と。このへん、それこそあの財務省界隈の「財政均衡」的な発想などとも絡んだ、本邦日本語を母語とする拡がりならではの悪さの働き具合なのかもしれず。ゆるく要検討お題でしかないとは言え。

杉田水脈議員「人権侵犯」事案・メモ


 杉田水脈代議士への人権侵犯認定ですが、これはニュースになること自体がおかしいです。私自身が同様のことを何度もされているので、その理由を説明します。


 人権侵犯は法的根拠がなく、非公開で、処分性がない手続きです。
 これは「人権侵犯事件調査処理規程」という法務省の内規で行われており、法律でないので国会の議決もされていません。官僚が勝手に決めた手続きで、これによって「国民の権利を制限し、義務を課す」ことはできません。
法律家の方は私が言いいたいことが分かると思います。


 非公開の手続きであり、識者による審査会なり委員会があるわけでもありません。毎年度の人事異動でたまたま赴任した法務官僚が勝手にやっているだけです。人権侵犯認定の過程は密室です。


 「処分性がない」というのは、何の強制力もなく法的な効果もないので、それに対して行政不服審査法により異議を申し立てたり、行政事件訴訟法により訴訟したりすることもできません。法務官僚が一方的にお気持ち表明して終わりです。行政不服審査法の対象にさえなりません。


 人権侵犯事件調査処理規程には「この規程に定める事務を行う場合においては,関係者の秘密を守らなけ ればならない」と書かれており、建前上は非公開の手続きです。なので杉田水脈代議士への人権侵犯認定は法務局が公開したことではなく、おそらくは法務局に申し立てた側が勝手に言っていることです。事実かどうかも含めて法務局側は答えないし、責任を負うこともありません。


 行政法に詳しい識者の方、反論があればどうぞ。
 あと、法務省は絶対に私に反論しないでしょうね。
 人権侵犯事件調査処理というのは、とてつもなく無責任な制度です。


 法務局側が責任を取らない以上、報道した側が全ての責任を負う義務があるので、今後同様のことをされたら、報道機関を訴えてください。法務局はノーコメントを貫くでしょうから、報道機関に対してボロクソに言ってやりましょう。


 盛り上がっっているスレには、やはりこれを貼らないといけない!同和地区の自治会長が市役所を恫喝してやりたい放題やっていた事件の、本物の恫喝音声です。
 法務省人権擁護局の本来の職務は、このような行為から企業団体個人を守ることです。原点に立ち戻るべき。

 これを聞いて、「虐げられた部落民の抗議だ」「先によほど酷いことを言われたんだと思う」と言う人がいますが、とっさにこんなスムーズな巻き舌恫喝を出来るわけないでしょ。日頃から練習して、常習的に同様の行為を繰り返している、プロの犯行ですよこれは。


参考資料
 これは法務局の「説示」の事例で、こんな文書が一方的に送られてきます。
 「反論なり訴訟はできないのですか?」と法務局に聞いても「処分性はないので出来ません」と言われます。
 「じゃあ、この紙を送り付けて終わりですか?」と聞くと「そうです」

 税金の無駄遣い。


 東京法務局人権擁護部がインターネットプロバイダに嫌がらせをした証拠文書
 法的根拠もないのに、こんなことをする
 人権侵犯事件処理規定は廃止すべきです

 部落差別は悪質デマです。2015年に私が部落地名一覧を公開してから、法務局が扱う部落差別に関わる人権侵犯の事例がむしろ減った。具体的には2014年140件、2015年126件、2016年91件、2017件106件、2018年100件…


 部落差別関係の人権侵犯事件の推移
 赤線が『全国部落調査』の公開
 部落地名を公表しても部落差別は増えないと証明されたことがよほど都合が悪かったのか、青線で法務省ゴールポストを動かした

 専門的なことや、事由の是非については「敢えて」ここでは触れないけれども、ただ一点、この「人権侵犯」の都合の良い使い回され方は、「公益通報」などとも同じハコのような印象がないでもない。

 ただ、「公益通報」については保護法その他含めて、法的制度的なたてつけがそれなりにしっかりあっての上のことだが、この「人権」がらみのそれは、どうもそこまでのたてつけがなされていないように見える。だから、当該所轄官庁の法務省無責のまま、告発した側が勝手に触れ回ることで印象操作が容易にできるのではないか、と。

 さらに「敢えて」言えば、「人権」がらみの部分であるがゆえに、「敢えて」このようなゆるふわグレーゾーンにすることで、便利に使い回せる余地を残してある、という可能性もあるのではないか、と。この「人権」がらみの「侵犯」その他の制度が作られていった過程、掘り返してみてもいいと思う。

同和しぐさ、とは?

 ちょっと某件の大漏洩案件見てると、左側ってのはワシが昔居った時から思考回路が全く変わってないのがスゲェなと。ただな、昔はもっと綺麗というかマトモにやったわ。カチコミくるぞと地元の親分が教えてくれるぐらいの付き合いとかしてたんだから。何も知らん年だけとった馬鹿どもが


 ワシらが教えられてた時はバレる前提でなるたけ書き物も残さずにバレた時の始末まで考えてやってたわ。今回のは発想がもうジャリガキ。ノリが学校のイジメとかよ。話にならん。そらこんなんでは選挙も勝てんわ。もう十年したら皆寿命じゃしのう…むごいむごい、ワシら部落も捨ててこのザマか


 ワシTwitterで十年以上言い続けてるが、やはり今の左はワシら部落とか被差別者を結局は『自分の理想の人生のための彩り』としか思ってないんじゃねえか?ワシが、もしかしたならば今大暴れしとるエエオトコが、実はワシら部落や被差別者の置かれた状況をホンマに変えてくれるのかもと言うたのはコレよ


 法匪とは、なんなら。当たり屋とは、なんなら。ホンマに被差別者を踏みつけにしとるのは、誰なら。何も持てずにせめて好みの作品を慰みにしとる者でも踏み台にして自身の倫理的優位性を示すか。ワシは見てきたぞ。生まれ落ちて50年部落ぞ。もう終わろうや、人は自分の言葉で1人で立つもんじゃろうがい

colabo、同●化する・メモ


【ご報告】
 私スルメはColaboとの和解を持ちかけられ交渉を重ねておりましたが本日決裂したことを表明したいと思います


 Colabo側からの和解条件は

 1 解決金80万円の支払い
 2 XおよびamazonにおけるColabo関連投稿の全削除
 3 Colabo側の用意した謝罪文を一定期間固定ツイートする
 4 Colaboの指定した記者による取材を受ける
 5 今後Colabo・仁藤氏に一切言及しない

というものでした


 私は以前より

 1 漫画やツイートに誤りや行き過ぎた点があると納得できたなら訂正・削除・謝罪を行う
 2 Colabo側が訴訟をとりやめればColaboに関する言及をやめる

と宣言しており 今回の和解でもそれを提示しましたが向こう側の条件と大きく乖離していたため折り合わず…その後も交渉を重ねましたが到底受け入れられるものではなかったため今回の公表に至りました


 具体的に言及するなら


 1の解決金80万は「開示請求費用50万円・仁藤氏への慰謝料30万」という内訳でしたが…識者に相談したところ「裁判で最悪の結果になっても80万は払わない」「開示請求は二回行われて特定に至ったのは一回のみなので一回分の値段としては高い」と言われこちらにメリットが少ないことを確認しました


 4の記者取材については 安田浩一氏・小川たまか氏による複数のマスメディアが参加する直接取材インタビューという和解を躊躇する内容であったためここでも拒否反応が出ました (なおColabo側の名誉として言及すると「オンラインでも可」「顔出し・声出しなしも可」「何を話しても罰則等はない」という条件も出されましたが編集権が向こうに握られている以上気休めにしかならないと感じた次第です)


 5に関しては「Colabo・仁藤氏に言及するという定義は何か、誰がどういう基準で判断するか」を問うたところ「Colabo側の主観(大意)」という返答があり「Colaboについて言及したつもりがなくてもColabo側が言及したと判断すればアウトということか」と問うたところ「いきなりアウト判定はせず『これはCol…aboに関するものでないと主張してくれ』」との返答がきました


 極論「私のツイートが気に入らなかったら『お前はColaboについて言及したな』とイチャモンをつけて和解を反故にし訴えることも可能」という事実上の言論弾圧が可能な条件であったため創作者である私としてはColaboにその気があろうがなかろうが何としても受け入れがたいと感じた次第です


 一番ありえないと思ったのが2の投稿全消しです
 「投稿を全消しするということはすべての投稿に問題があるということか、それならその問題を全投稿分すべて教えてほしい」と頼んだところ「教えてやるからひとつのツイートにつき10万円よこせ(大意)」という驚愕の回答が届きました…あまりのおかしさに追及したところ「これはただの例示であって本気じゃない(大意)」「交渉すれば一万円にしてあげた(なお最初に和解条件は交渉で変わらないと言及済み)」などと不信感を増す返答をしてきたためこの時点で私の中で和解はほぼなくなりました


 なおColabo側の自称仲介人の方がColaboとの和解を持ちかけてきましたがもしその方から「自分はColabo弁護団と深いつながりがある」「とっとと謝罪すれば和解が進むぞ」「和解したかったら暇空への蜂起に参加しろ」「カルピスの親玉はColabo弁護団だ」「お前のどのツイートが問題かも弁護団から教えても…らってるぞ」などの甘言・デマを持ちかけられるかもしれませんが当のColabo弁護士より「すべてその自称仲介者のデタラメだ」「そいつが何かしても我々は関係ない、勝手に訴えていい」という言質をいただいてますので騙されぬよう注意喚起しておきます


 とりあえず今のところはこんな感じです 今後本訴訟へなだれ込んでいく可能性が大ですので訴状が届き次第みなさまからカンパを募集したく思っています 財布に余裕がある方でけっこうですし「カンパは信用できない」と感じる方もいらっしゃるでしょうから慎重に考えて入金していただければ思ってます…

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単に二枚舌で恥知らず、なだけの「こんな人たち」

 ここにきてようやく、と言っていいのだろう、本邦のフェミニズム界隈の近年、あまりにも常軌を逸したていたらくに対して、素朴な反感や違和感がまとまった形で表明され得るようになってきたようで、ひとまずそれは喜ばしい。

 言わずもがな、のことだが、それは別にフェミニズムの思想がどうこうといった話でもない。そんなムツカシい話では全くないのだ、ほんとに。

 そんなことよりはるか以前に、およそ無自覚な二枚舌、自ら発していた意見や見解、立場の表明に対して、違う状況になればきれいにそれと反することをいとも公然と発言、およそ「反省」「自省」といったものが生身の裡に実装されていないとしか思えないほどに、恬として恥じないその態度そのものに対する反感や違和感、不快感が醸成されていった果ての、世間一般その他おおぜいのごくごく普通の、あたりまえな感情の発露ではある。敢えて言挙げするなら、まさに「常識」をものさしとしての当然な異議申し立て、主義主張能書きの中身以前にまず「あんたら、常識あるおとなとして、それは通らんだろう、いくらなんでも」というレベルでの、圧倒的に日常の口語体での、世間一般その他おおぜいの生活者気分からの表明だと言っていい。

 それは、単にフェミニズムジェンダー論といった、およそ限られた狭いガクモン世間の半径においてだけでなく、広く社会に対して何らか「もの申す」立場をあらかじめうっかり明確にしてしまっているような界隈、それもかつての凡庸で、だからその分いたく無邪気だった床屋政談の類でもなく、すでに何らかの大文字の主義主張、ある政治的立場に依拠した偏狭で硬直した発言や行動を自ら「正義」として、洗脳されているとしか思えない自閉ぶりのまま、衆を恃んだ「運動」「行動」としていつでもどこでも飽きずに行なってみせるような人がたの間に、実は驚くほど広い範囲にすでに共有されてしまっているもの言いや身ぶりに対する反感や違和感、不信感としてまで、ひろく敷衍されるようになっている。

 それらの人がたは、ひとまず「サヨク」「リベラル」と呼びなされるようになっていて、その定義は措くとしても、たとえ便宜的にせよ、そう呼ぶことで「ああ、そういう人たちね」という理解までもが、いまやそれなりに共有できるようになってはいる。他にもっといい呼び方があればいいと思うし、これまでの思想的な語彙としての「左翼」「リベラル」とも明らかに別もののもの言いではあるのだが、まずは仮にでも名前をつけておくことの効果において、ひとまずそれはそれ、現状の方便として認めておいていいのだろうと思っている。だって、それはまさに「こんな人たち」という意味なのだ、とりあえずは。

 一方、そう呼ばれる「こんな人たち」の側からも、そのような呼ばれ方をされることに対して、「ネトウヨ」などという呼び方を、まるで鏡に映ったようにしてみせるところまで含めて、現われとしてはいまやワンセット。元は「ネット(に棲息、跋扈する)右翼」ということなのだろうが、同じひとくくりのレッテル貼りだとしても、そのもの言いの解像度は、先の「サヨク」「リベラル」よりも格段に低く、かつ粗雑なままなのが通例。単に自分たちをほめてくれない、共感してくれない、つまり「承認欲求」を気分よく満たしてくれない、という属性だけでひとからげの、まさに「藁人形」。まるで洗脳されたカルトのごたる、というこれまた素朴な感想までも、子どもですら抱いてしまうくらいに、それはもう取り返しのつかないレベルにまで蠱毒化しているらしい。

 この「人として」というあたりのことに、どれだけの含みがあるものか。「こんな人たち」は未だ気づけない。そしてそれが、思想信条、政治的立場などでは全くなく、それを宿す生身の人間、ごく普通の意味での一個の「おとな」としての信頼性が根本的に欠落しているとしか見えないことへの違和感であることにも、「こんな人たち」は意識できない。さらに、そのような状態でもなお、そのことに全く無自覚、無意識で平然と同じ身ぶり、同じもの言いを横並びに繰り返して、世渡りしようとしてゆく鉄面皮にこそ、いま、世間一般その他おおぜいレベルでの非難が、これまでと違う広さを伴いながら合焦しつつあることに、いい加減気づくべきだと、ほんとに思う。

「メイド」と「女中」の間

 自分、昨今のあの「メイド」というキャラにほとんど何もグッとくるものを感じない程度には老害化石脳なのだが、お好きな向きのいまどき若い衆などにとってはあれ、かつての「女中」に喚起されていたような階級的差別意識などは、今日的に転生しているものなのだらうか。

 「白樺派の多くにとっては、女中との肉体的な関係をもつことが、最初の深刻な人生問題であった」と、鶴見俊輔はうっかり喝破していたが、そしてまた、奥野健男はそれをさらに「ねえや」と、いま一歩踏み込み、微分したところで、家屋の造りなどもからめて立体的に論じようとしていたはずだが、さて、いまどきの「メイド」にはそのような人文系由来のたてつけに置いてみての、分析や考察沙汰というのは、果たして可能なものだらうか。

 「性欲」一般が「性癖」などにも横転してガバガバな認識になってゆき、人の好き嫌いから趣味道楽の類に至るまで、いずれ人のココロのからんだ現れ一般についても、その背後に否応なく生身の身体、常にとりとめないものとしてしか現前しようもないものが介在しているということについて、ついうかうかと忘れてしまうようになっているように見える。

 そう言えば、先の鶴見俊輔の、白樺派と女中ののっぴきならぬ関係についての評言をとりあげ、さらに身も蓋もなく開きにしてみせたのは、花田清輝だった。

 「しかし、わたしは、むしろ、そこに、かれらの「最初の深刻な人生問題」ではなく、かれらの最初の美の発見をみたいとおもう。芸者にではなく、女中に美をみいだすような眼が、骨董にではなく、日常雑器に美をひいだすのは自然であって、一見、民主主義的なような気がするとはいえ、その美意識の在りかたは、本質的な意味においては、「八月十五夜の茶屋」の主人公のばあいといささかも変りはない。要するに、かれらは美というものを、玩弄物だと心得ているのである。芸者をいじるのも、女中をいじるのも、骨董をいじるのも、日常雑器をいじるのも同じことだ。美とは、かれらにとって、いじることによって、かれらの所有慾を満足させるなにものかである。」(「いじるということ」)

 女中もねえやもいなくなった日常生活があたりまえになり、その中で育ったいまどき若い衆世代――いや、自分とて、基本的には同じなのだが、そういう感覚にとって、「メイド」というキャラなり表象なりは、かつての女中やねえやにあたりまえに抱き得たような「違い」の原初的体験がらみのココロの動き、本質的な意味での「性的」何ものかに根深くつながり得るような意識というのは、果たしてあり得るものなのだらうか。

 「性的」だから、それは当然「暴力的」にも通底しているはずなのだが、まあ、そのへんはまた例によってゆるゆると。