オリザ問題・拾遺

*1

 坂本龍一の「たかが電気」発言の意図もそういうもので、それを汲む親切なワンフーの受容範囲を超えて拡散した結果、アホな芸術家の失言歴として広く記憶されるようになった考えれば腑に落ちやすいんですね。ケラは要は宮沢章夫ワナビーですよね。彼の口真似をしていたら存外に悪評を受けるようになってしまい、しかし後に引く必要を認識出来る情報環境にいないので、修正の仕方が分からない。それでなくても歳食って意固地になっているので尚更、というのが真相でしょうね。

 ありがとう。いろいろ勉強になりました。宮沢章夫は芝居を知らない範囲での感想なんだけど、「僕たちのサブカル」を絶対化したまま、いつの間にか権威の側になっているのにその自覚がなく、むしろ無邪気に喜んで、片寄った好みを正史として定着させようとしてるマズさは感じますね。
しかしケラなんてナゴムから出発してるのにと思うと、成功者が自省とマイナー魂を保つのはそんなにも難しいのかとため息が…。

news.yahoo.co.jp
anond.hatelabo.jp

*1:じきに文脈も何もかんもわからなくなりそうなできごと、ではある分、拾っておく必要があるかと。平田オリザ炎上事件。

カネ払う客に文句を言う不条理

*1

同席してたキャストさん(いわゆる風俗嬢の方)より

「よくわかんないけど、お金払ってくれてる岡村さんはお客さんだけど、好き勝手騒いで仕事まで辞めろとか言ってる人たちが福祉とか言ってるのってまじ笑える」

だそうです。

「まさか岡村さんをいじめる記事を書いて稼いだおっさんって、そのお金で風俗とか行こうとしてない?まあお金払ってくれるならなんでもいいんだけど、抜かれておいて説教ばっかり垂れてくる痛い客の匂いが半端ない」

というキャストさんからの追い討ちも頂いてGWに突入しました。

 推計ですがおそらく岡村発言を指摘した記事により、20-30万円程度の報酬が個人に支払われる模様。なんに使うんだろうねー?政府からの10万円の振り込みを待ってる間にコタツ記事書いて30万稼ぐことが福祉なのかしらね?だれかの役に立ったんだろうかね?


 社会のため福祉のため伝えることは大事だと彼らは口にはするけれど、だったらもっと丁寧に共感を集めてどうすればよりマシになるかを提案しろよ。福祉や社会活動の名目で、無駄な煽りで注目を集める。結局は煽った個人にお金が流れる状況。中小企業事業主、セックスワーカー個人事業主NPO法人経営者。助成金や取れない融資、10万円の支給をまだかまだかと待ってる中、活動家は自宅のパソコンでコタツ記事を書くだけで個人で数十万を稼いでいる事実。誰かを犠牲にして個人にお金が回る仕組みを福祉活動家が行ってる事実がある。社会活動してるから何言ってもいいわけではない。


「政府は早く10万円を支給せよ!」という感想文を書いておいて、さらに芸能人の失言を吊し上げて煽り記事を被せPV稼ぐと、あら不思議
政府より早く数十万円が振り込まれる立場にいるんですよっと。事実ね。


 これって貧困ビジネスっていうんじゃないですかねー(棒)

*1:ナイナイ岡村の「失言」(それも深夜ラジオでだ) 発端の炎上事件関連。これもじきに忘れられそうな事案なんで、こういう声は拾っておく。

ある卒業生謝辞とロスジェネ的諦観

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*2
https://www.univ.gakushuin.ac.jp/news/ee10cfd218ece3f5748e0dc6ad9beb8ff367e79f.pdf
togetter.com
dennou-kurage.hatenablog.com
 ここまでなら、まあ、これまでもたまに間欠泉のように取り沙汰されることにあった「当世若気の至りなおねえちゃん」行状記的世相点景エピソードのひとつとして、それこそ生温かく遇されるだけでスルー、だったんだろうとは思う、かつての井上緑さんのように。*3

 ところが、これが案外な刺さり方をしたらしい界隈もあったようで、自分的にはそっちの方がいたく気になってしまった次第。いわゆるロスジェネ氷河期世代のまわりに何やらピンポイントで、というあたりがいろいろと考えるべきものを示してくれていたような。

 まぁそんな最強種だとさ、うん。良いように使われるわなぁ…。それで未来を潰されるなんて本当になんというか、言葉も出ないかなぁ。その時にね、こんな人種作っちゃいけない。子供が不幸になるって専門を個々に鍛えた結果、学習院の謝辞になるというその流れも辛い。

*1:発端はこれ。学習院大学の卒業生代表、国際社会学部は小堀奈穂子なるおねえちゃんの謝辞。コロナ禍で卒業式が中止になったのに、というかだからなのか、トンガった謝辞がひとり歩きした感は正直あったけれども。

*2:と、在学中に何やら賞を貰ったというレポート。

*3:と言ってももう誰も覚えちゃいないだろう。かつて東大駒場の「中沢事件」wの時に、朝日新聞にあっぱれ中沢擁護の投書を行い投書欄に顔写真と共に掲載された栃木県在住の女子高生。

「主体」と「おキモチ」

*1
 「主体」や「実存」こそが、本邦いまどき日本語環境における〈知〉の復興の重要なポイントである、というのは年来の持論でもあり今も基本その通りだと思うが、ならばさてどうやってそれを論点として共有させることができるか、というあたりになるといろいろと、な……(´-ω-`)

 たとえば、自分の発言や書いたことに対する「責任」の意識の宿り方からもうだいぶ前から、それこそポスモ・ニューアカの頃から違うものになってきとるわけで、「言っただけ」や「想定内」といった予め「主体」を免責しておくココロの機制が広範に実装されちまっとる状況からさて、何をどうやって、と。

 で、それはある意味では、それこそかつてのおっさん的浪漫主義と「主体」の関係を復権させてゆくこと、にもつながらざるを得んかったりするらしくて、な。それこそ、そのへんは言葉本来の意味での「フェミニズム」なんかの論点と実践の関係としても重要になってくるはず、ではあるんだが、な……

 オンナの人がた、が今様の「主体」になってゆく過程で、そういうかつてのおっさん的浪漫主義を一律全否定することを前提にしていった(倭フェミの工場出荷設定でもあるらし)以上、いまどきポリコレ憲法下の情報環境での「主体」「実存」を語る話法・文法からしてもう(ヾノ・∀・`)ムリムリでないかと。だからこそ、昨今ああいう「おキモチ原理主義」がいまどき情報環境での「主体」「実存」の表現になってきとるところ、ありそうな気はする。もはや「ワタシのキモチ」ってのにしか、そんなうすらぼんやりとした輪郭のあやしいものくらいにしか、「自分」の「実存」の依拠する足場を認められんようになっとるんだとおも。

 文字・活字と書籍を、少し前までのように蓄積的に「読む」(良し悪し別に)ことを前提にして構築されていった(らしい)「主体」なり「実存」とは違う情報環境とその内側での情報摂取過程に規定された、その意味では新しい「主体」「実存」ということになるのかもしれんが、ただ、だとしたらなおのこと、そういう新しい「主体」「実存」を想定した「社会」や「公」はさて、いったいどんなものになるのか、という、な。この場合、自分が「主体」なんかでなくても別に構わない、というあたりのことはとりあえず措いておくとしても。

 「主体」でなければ困る、自分の事情ではなく立場として、社会的な存在としてそういうものになることを必然的に要求されてしまっている人がたというのは、個人の意志とは別に常にあるはずなわけで。そういう人がたまでもが世間一般その他おおぜいと同じような「おキモチ」即「主体」であるような輪郭でしか個人でいられなくなっているのだしたら、そりゃ「自己責任」なんてもの言いにしても、その前提の「自己」のありようからして別ものになっているわけだし、当然そこにぶら下がっている「責任」なんてのも、また。

「おキモチ」主体に「責任」という概念はない。というか、そこに紐付いてゆかないし、ゆけない。自分以外の他人についても、同じように「おキモチ」としての他人でしかないから、ある意味地続きのまんま主客の仕分けも意識されない。「想い」だののもの言いがやたらと濫発、多様されるようになっているあたりの事情とも関わってくるはずであり。*2

 

*1:Twitterのメモ、に対する机上の備忘録として、例によって。

*2:「溶けたバター」という比喩(だか何だか)はずっと以前から使っている。あるいは「さめたタコヤキ」のような気色悪いくっつき具合、なども。

2ちゃんねる昔話・メモ

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 リンク先は02年ごろ。自分は有名ゲームの勇者から転生した者で、姫の生まれ変わりに違いない作家さんを守るために来たって玄関先まで勇者のコスプレで押しかけてきたらしい。作家さんは友達に相談、友達が帰ってもらおうと交渉すると、相手からは「お前はラスボスの生まれ変わりだな」と言われる事態に。


 こういうケースが無数にあり、作家さん自身もどこに相談したら良いかわからない(同人活動を周囲にバラしたくないし)から、2ちゃんねるに相談してたんですよね。この頃から同人誌の奥付に住所を載せなくなったんだと思う……


 こっちは他県から遠路遥々押しかけてきた伝説的なスレッドですね……「G県厨」って呼ばれてた
sasakama.s13.xrea.com

 私が感じていた空気は「女への排斥思考が凄い」ではなく「女性性を名乗る者への不信感が凄い」こと。そしてそういうオタク連中のたまり場なり逆説的に自虐的なコミュニティとして(ここにいるというのはそういう人間だ的な)機能していったという雰囲気でした。


 こういうのもあり、そもそもとして性別を明かすメリットが1ミリもないナード連中のたまり場だというのがまず大きいです。「半年ROMってろ」という言葉があるように文脈の無い唐突なレスは嫌われるし、それがピンキリ性別をほのめかすものであればまず嫌われて当然だった。


 コニアさんが何に冷笑しているのか正直分からないし相変わらずだなとは思いつつも、少なくとも個人の体感として「女性だから2chの排斥思考の被害に遭うことは無いはずだし、あるのならばROMってろ案件」なのではないかなと思います。それこそ一人称で「私を使っただけで」叩かれるというのは、前後の文脈として何らかのやらかしをしたんじゃないかな、という感想です。

*1:かつての2ちゃんねるでは「私」という一人称を使っただけで排斥された、あそこは女性を本質的に排除する空間だった(大意&雑)的な記憶を大上段からふりかぶって投げ込んでくる御仁が跡を絶たない上に、それが相当にバイアスのかかった「歴史修正」しぐさのひとつであるらしいことも含めて、web環境とジェンダーwの関係とその表象wwについての問いの一環として。

web環境の同時代史・メモ

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ウェブサイト急増が1996年ぐらいでこの年大学進学率36%(短大12%専門19%)
この大学生達が90年代後半のネット空間の「公衆」達でパソ通時代の「大人」から見た荒らす人々。
てれホーダイ95年開始、あやしいわーるど96年、あめぞう97年、2ちゃん99年と続くネットが24時間動き始める時代の到来が90年代半ば。


99年以前に発売されWindows98seはダイアルアップ接続に対応しているそうなのでこのあたりがダイアルアップ→ADSLへの移行期。
ウルティマオンラインAoEは97年、ムキャ(!)接続のPSOは00年、PS2から接続できるFF11は02年運営開始。
ネット利用のおたくが男子大学生のイメージで語られる原因たち🤔


パソ通時代と比べてぐっと匿名度が上がったのはやはり2ちゃんあたりの「名無し」かなあと思って。
ただし、インターネットは匿名で〜と語られる時代は(ネットの中では)すぐに終わり、ゲーマー達がHNとはいえアイデンティティを持った存在としてすぐに台頭し始めた。これはリアルゲーセンとも連動かな。


ネット内の「公衆」が若年男性と語られがちなのに対して、女性陣の台頭は魔法iらんどなどガラケー勢が99年からか? 発言小町99年なのでこのあたりでネット住民の属性に成人女性が追加、前略プロフ02年mixiは04年でいわゆる女性向けコンテンツも賑わい若年女性も追加されはじめる。


アンダーグラウンドと言われがちなインターネット空間もWinnyで逮捕者がでるのが02年と実は同時進行。
まとめサイトやニュース系が盛り上がりいわゆるのまねこ問題などリアルコンテンツとほぼ変わらなくなってきたのが05~06年あたり。
ニコ生07年ぐらいで実は結構遅めでたぶんこのあたりで世代交代。


総務省がそのまんまの話題でコラム出してた
www.soumu.go.jp


ゲームやガラケーがなぜ大きなポイントかというと初期投資が圧倒的に少ないから。
パソコンの値段ってそこまで変化なしで10~30万前後のかなり大きな買い物なのはある意味安定な95登場時から変化無し。
ガラケーもコンシュマーゲーム機も3万前後の圧倒的にお安い時代(これに比べるとスマホは高い)

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 公衆なり何なり、それらその他おおぜいのイメージに、あるいはそれだけでなく内実についても「女性」が織り込まれていった過程。殊にそれが現実の生身の集合態としてのその他おおぜいとしてよりも、webならwebという環境を介して合焦されてくるイメージという意味において。

 それは、「おたく」黎明期のコミック・マーケットに実際にどれくらいの比率で女性が参加していたのか、という古くて新しい、そして未だに印象やイメージと実態の乖離が気づかれ続けているような問いにも重なってくるわけで。このへん、いわゆる「歴史」と〈いま・ここ〉の折り合いつけ方、つけさせられ方とそれに対して同時代がどのように認識しているか、という難儀なお題とも例によってからんでくるらしく。

*1:いわゆる「ネット」の情報環境がどのように整えられていったか、というあたりのお題。ドッグ・イヤーであるがゆえに現代史としても動きが速く、だからこそ人々の記憶にもうまく定着しないままに〈いま・ここ〉の常態としてしか認識されていない憾みはだいぶ前からすでに。レジュメ的によくできた概括だと思うので、備忘録として。

めんどくさい、人

 同性であれ異性であれ、キモチを素直に表に出せなくなっているような生身の個体には、もちろんそうなるに至った事情や理由、背景などがさまざまにあるだろうということも重々承知の上で、いやだからこそなお、あまり良くない意味で「気をおく」ような間柄にしかなれないままだったような気がする。

 「相性」や「好き嫌い」の類ではない、おそらく。そこから先、手間も時間もかけながら「つきあってゆく」ことに踏み出す、その最初の一歩を躊躇させてしまうような何ものか、の介在。

 素直じゃない、とだけ言ってしまえばそれだけのようなものかも知れない。でも、その中身についても何かもっと拗れたものが配合されていて、そしてそれが当人の個性や性格といった水準だけで片づけていいようなものでもなく、たまたまそういう時代、そういう状況に生まれ合わせて育ってきてしまったがゆえの、当人は避けられないだろうし、またうまく自覚も気づきもできないような種類の難儀が、色合いの違う糸がうっかり混じって全体の色味を微妙に狂わせてしまっている織物のような印象で察知されるわけで。

 そういう部分も含めて「縁がない」とだけ言ってしまうのは、さて、ほんとにいいのかどうか、未だにわからない。

 ことを異性間のそういう関係、とりあえずは「恋愛」とくくられるような部分にだけ限ったとしても、昨今の「非モテ」問題のその日々の日常の中の発端、きっかけの部分において、そういう「何ものか」に相互に反応してしまうような鋭敏さが、あまりにうっかり誰にも平等に実装されるようになってしまっていることが否応なく関わっているような。実際につきあったり関係をもって維持したり、といった段階に踏み出すその手前でまず、そういう鋭敏さが発動されてしまい〈そこから先〉が立ち上がらないバグ。

 外から見ている限りは冷静だったり平静だったり、そういう感情の動き方について察知しにくいような、まただから「クール」だの「おたく」だのと乱雑に、かつ得手勝手に評されて日々流されているような生身のありようではあるのだろう。また、だからそれ以上はまわりからも関わろうとしなくなっているし、それは昔ならばいざ知らず、昨今のような状況になって久しい現在、わざわざ〈そこから先〉に手かけてほぐして開いてゆこうと働きかけるような心性自体がもう、世間から失われつつあるらしい。だから、そういう種類の冷静や平静が、内実とは別に放置され、少しずつバランスを崩していっているような物件は、普通に隣にいるようになっている。古いもの言いを使うならば「愛嬌」のない、あるいはそういうものに乏しい若い衆世代が男女不問で増えてきて、もはやそれがあたりまえになってしまっているような印象すらあるわけで。で、それは昔から一定比率でいたようなココロのありようと生身の輪郭ではあるんだろうけれども、やはりここでも問題になるのは、それがこうまで誰にも実装され、あるいはそれなりに世間の表に見えるような年齢や場所に至るまでほったらかされてきてしまうようになった、そのあたりのことになる。

 「めんどくさい」という評言が、自分も相手も含めたそういう生身の性格、個体のキモチやココロの働きも含めたありようについて使い回されるようになっていった経緯、などともどこかで関わっているのだろうけれども。そういう「めんどくさい」人や心理についての本は昨今、こんなに各種出されているというあたり、まあ、いろいろと。

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