2010年代ツイフェミの記憶・メモ

なぜ2010年代のツイフェミを語ったかというとTwitter上の知り合いが傾倒して後に壊れて消えたから。あの頃もイラスト表現などに抗議していたけど本質は別だった。出口のない怒りに燃えて自分自身がいやになって辞めた印象。kutoo以後に目立ち始めて人たちと何かが違うと気になっていた。


例に挙げた2010年代ツイフェミの人は反陰謀論・偽科学批判派だった。あるときいきなり「まなざし村」に入村。やってることは今のフェミそっくりだけど、彼女の意識は何かと違っていた。Jリベラルっぽさもなかった。

togetter.com

付き合いはなかったけれど、市民記者→STAP細胞報道で無茶苦茶をやった人も2010年代ツイフェミの系譜に入れてよいように思う。この人はレイバーネットだし今だったらJリベラルにカテゴライズされただろう。


ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC…


STAP細胞報道でやらかした人も女性固有の問題を(自分が悪いか他人のせいか別として)抱えていたのは間違いないと思います。小保方氏を異様なほど擁護していたのもこれ。やらかしたことは褒められないが、うまく内面を整理していたら真っ当な課題が浮かび上がっていたかもしれない。


「紙屑が発信するごみサイトです。」
最後はやってきたことを捨てて消えてしまった。

f:id:king-biscuit:20211121213455j:plain

少女漫画的顔つき、の変遷

少女漫画は昔から目が大きくヒロインが女子大生になっても目の大きい童顔で(「フランス窓便り」を思い出して)、母親もほとんどしわのない童顔です。ほうれい線のある母親はなかなか出てきません。童顔の少女、女性の原型は少女漫画です。読者は少女で、男性の願望から童顔が生まれたとは言えません。


あまり漫画を知らない人に勝手な心理分析をされても迷惑です。私は投稿時代は今より小さい目を描いていましたが、その絵ではダメと言われて目を大きくしてデビューできました。アシスタントをした先生には、子供は目の大きな顔が好きなんだ、とプロ意識を叩きこまれました。子供が童顔好きなのです。


目の大きい童顔とは別に、昔は白人への憧れがあり、日本人を白人のように描く少女漫画も人気がありました。特に少し読者年齢が高くなると彫りの深い顔が好まれました(「ぶ~け」を思い出して)。近年は白人顔が廃れました。欧米への憧れが薄れたからではないかと思います。釣り目童顔の日本人でヨシ。


私が漫画家になりたいと思った理由は少女漫画が女性の仕事だったから。お茶くみも宴会もなくデビュー当時はすでに男女同一原稿料でした。だから希望を持ちました。女性向けは恋愛ものが多いので恋愛に伴う性表現も仕事です。男性を狙って性表現を規制すれば仕事を失うのはむしろ女性になります。


一昔前は、彫りの深い、鼻筋の通った絵が流行していました。「動物のお医者さん」を思い出して下さい。今は顎が小さく鼻は小さいか省略、口も小さく、唇にも口紅なしの絵が主流です。こういう流行は漫画家一人がどうにかできるものでなく、そういう絵に近づけるしかありません。小児性愛は全然無関係。


日本人なら漫画の絵が時代の流れとともに変わってきていることくらいわかると思いますが、外国の方には全部子供に見えるかもしれません。もともと東洋人は童顔で海外に行けば子供料金で通用するという話も聞きます。漫画でデフォルメすればさらに童顔になります。東洋の漫画は童顔ですが大人です。

30年以上前新人時代にアシスタントをした少女漫画の先生は白人の子供の写真を見て描いていました。日本の子供より可愛いからだそうです。背景もパリやニューヨークの写真を使いました。「日本は汚いからパリみたいに描いて」という指示もありました。今は白人コンプレックスが薄れ良かったと思います。


私は若い頃は白人コンプレックスが気になっていました。どうして白人の子供のように描くのか、と思いながら働いていました。その後少しずつ釣り目細目色黒太めのキャラクターも支持されるようになってきています。「吉祥天如」、「カンナさーん!」、「ピーチガール」など表現の幅が広がっています。


今は主役級は童顔が流行していますが、脇役のキャラクターは老若男女はっきりと描き分けられ進化しています。絵描きは言われるまでもなく勉強を積み重ねており欲がありますから、進化は止まりません。やがて商業もさらに造形の幅が豊かになると信じています。今まで進化し続けてきたようにこれからも。

「おはなし」の制御のされ方・メモ

f:id:king-biscuit:20220111234717j:plain

猗窩座さん、煉獄さんとの対決では典型的なアレな小物っぽく見せられており、もしあのまま彼のバックボーンが語られないまま彼が殺されていたら、恐らく彼はネタキャラ以上の存在にはなれなかったと思うのだよな。では逆に言うとバックボーンの語られなかった「小物たち」は本当に小物だったのか?


これは鬼滅に限った話ではないんですけれども、我々は「語られた物語」には過剰なまでに共感を示すことがあるのに「語られない物語」に対しては驚くほど鈍感かつ冷淡なんですよ。


逆に手練れの物語の作り手は、それを逆用して「ヘイトコントロール」をすることが出来る、やってくることがある。そういう構造に気付いたときは割と背筋が凍るというか、隠された時限爆弾を発見してしまったときのような緊張感が出てくる。


この話、たとえば鬼舞辻無惨に「邪悪さの理由」バックボーンが用意されたら興醒めだ、ていうのは確実であるのですが、それは『読者にとっての許されざる敵』として無惨が適切にヘイトコントロールをされたからだと思うんですよ。


吾峠先生なら、あれだけの蛮行を行い、鬼殺隊を愚弄した無惨にさえ、その行為に納得の出来る理由や背景を用意することは簡単に出来たはずです(猗窩座さんにそれが出来たのだから、これは当然無惨にも出来たでしょう)。しかし、やらなかった。そういう邪悪な存在として、敵として無惨が必要だからです


さて、ここで無惨を憎むべき、汲むところのない邪悪な存在として求めたのは、吾峠先生でしょうか?我々読者でしょうか?


恐らく吾峠先生は理論的にどうかはともかく、感覚的に『そのこと』に気付いている。それは妓夫太郎の話から明らかではないか、と自分は考えています。


(妓夫太郎の話に関してはこちらのツリーを参照されたし)( twitter.com/Werth/status/1… )


頭がおかしいと言えば堕姫・妓夫太郎のエピソードもだいぶ頭おかしいんだよな。これ竈門兄妹の裏の話なので。。。要するに「可哀想な被害者」ではない、醜い竈門兄妹の話だから。


妓夫太郎は『同情してもらえない竈門兄妹』として設計されたキャラクターだという話をしました。彼らが主人公の鬼滅の刃は、十週打ち切りでしょう。ヘイトコントロールに失敗しているからです。


「堕姫・妓夫太郎が主人公の鬼滅の刃」が十週打ち切りになるということは、我々読者が如何に『同情できる相手かどうか』という残酷な判断で「弱者」を選別しているかを如実に示すものだと自分は考えます。要するに、我々読者が作者をそう誘導しているのです。そうでなければ連載は切られるのですから。


さて、もう一度考えてみましょう。無惨を憎むべき、汲むところのない邪悪な存在として求めたのは、吾峠先生でしょうか


もし、鬼舞辻無惨に、これまでの評価を覆すような背景が与えられたら、少なからぬ読者は怒るでしょうし、実際興醒めなわけです。俺も興醒めです。しかし、そのように汲むべきところのない邪悪な敵であれと望む我々自身の願望も割合邪悪ではありますよね。たぶん吾峠先生、それを理解してるのでは。


まあこういう少年漫画における作品展開へのメタな認識と言及は今に始まったことじゃなくて、俺の知ってる限りでも冨樫義博幽遊白書でやっています。樹のツッコミですね。

『これからは二人で静かに時を過ごす』
『オレ達はもう飽きたんだ』
『お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい』

今振り返ると冨樫も大分頭おかしいな……。少年漫画の構造への批判を、作品内で行い、しかもそれが物語として作品内できちんとした意味を与えられている。『少年漫画』というものに延々と苦しめられ続けた連載作家だからこそ描けた話かもしれませんけど、それにしたってこの技巧はヤバい。


当時の読者(いや俺なんだけど)どんな面してあのセリフ読んでたんだろうな。今お前らのこと批判されてんだぞ。わかってんのか(わかってませんでした)


幽遊白書後期から『冨樫は壊れた』という言い方がされていたことありましたけど、こんな物凄い壊れ方する人いる?ていうのが正直な感想ですね……。物凄い正確な壊れ方ですよ。

上野昂志の「うた」の位相・雑感

*1

 上野昂志という名前ももう忘れられかかっているのだろう。だが、いわゆる大衆文化についてこれまで人文的な批評をものしていた一群の人たちの中でも、いま改めて読み直してみて、まだ何か引き取っておくべきものが豊かにあるというのは、かなり稀有な例になるのだと思っている。このあたりのその稀有なありようについて、機会あるごとに言葉にしておきながら、自分の仕事のよすがにしておくことは、別にこの場合だけでなく大事なことだ。

 おそらく「アカシヤの雨が止む時」と安保闘争を結びつける意識が現われてきたのは、何年かたって、それをうたうようになってからのことであろう。つまり、1960年を振り返る意識のなかで、この歌は、そういう象徴的な意味を附与されるようになったということだ。それはいいかえれば、そのようなものとして、改めてこの歌を聞き直すようになったということでもある。意味附与をしているのは、そのときの現在なのだ。1960年の現在ではない。

 単に個人的な体験・見聞をもとにした印象批評にすぎない――いまどき若い衆世代ならそう一刀両断に片づけて「老害」話法、「団塊」人文系的構文、といったことで一顧だにしなくなりそうな気もするが、だがそうじゃない、逆にそうやって一顧だにせずに見過ごしてしまうあたりが「そういうとこや」と言いたくなるところだったりする。

 たとえば、先のあと、このように続けるあたりの二枚腰、しぶとく何ものかに拘泥しようとする姿勢について、さて、どう反応できるだろう。

 だが、すでに書いたように、絶えざる現在によって生命を吹きこまれるのが歌の常であってみれば、それはやむを得ない事でもある。それをあたかも1960年のことのように考えるのは嘘っ八だが、だからといって、そのような意味を与えようとした60年代のあるときをも否定し去る事は出来ないだろう。そして、1960年に聞いたときには幾つかの断片として沈みこんだこの歌が、ひとまとまりの姿で現われたのは、むしろそのようにうたったときなのだ。 

 個人的な体験・見聞をもとにした印象にすぎないことを、彼はそこからもう一度、それらの自分の記憶の裡でのありようを腑分けしてみようとしている。常に現在でしかなく、その意味で〈いま・ここ〉で常に新たな意味と印象を附与され続ける「うた」の体験のある本質について、はっきりと狙いを定めようとする。だから、そこから引き出されてくる次のシークェンスは必然的に挿話のかたちをとる個別具体になってくる。

 同じようなこととしていえるかどうかわからぬが、60年代末に、われわれの周辺で「再会」がちょっとしたリバイバルをしたことがある。これは、その頃のわれわれがよく通っていた新宿の小さな酒場で、むろんカラオケなどのないときだが、当時『現代詩手帖』の編集長をしていた桑原茂夫が、酔うとこの歌をうたうことから仲間に波及していったのだ。

 何度でもよみがえる「うた」の記憶。自分の裡から腑分けしようとしたことを、今度は自分ではない他の誰かの身の裡にも起こり得たことではないか、という仮説というか確信から、自身の記憶をもう一度探りを入れてみる。もちろん、そこからは描写になる。

 そして、〽ちっいちゃーな青空 監獄の壁を- あ-ああ-あ みいつめつつ というサビになると、われわれもつられて合焦するようになった。そして、そうやってうたってみると、監獄の小さな窓から見える青空がまざまざと感じとれて、わたしは改めて、これが流行したのが、安保闘争の年だったということを想ったりしたものだ。しかし、1960年にこの歌を聞いたときの記憶では、あくまでも愛の歌としてのみ、受けとっていたのである。もちろん、それでいい歌だとどこかで感じていたからこそ、断片的にではあっても記憶していたわけだが、監獄の壁には意識は届いていなかったのだ。それはほぼ十年近い時間をへて、にわかに意識の前面に浮上してきたのである。

 自分だけではないらしい、そのような「うた」の再浮上の〈いま・ここ〉における、ある「場」を介した光景。時間の経過があったからこそ、それは可能だったのではないか。常に〈いま・ここ〉でしかない「うた」の経験は、まただからこそ、時間の経過を味方につけることで、〈いま・ここ〉の現前性を越えたある「普遍」の何ものか、をうっかり獲得もするものらしい。

 われわれは、ノスタルジックに「再会」をうたい、べつにそんなことは口にしなかったが、この歌を1960年に結びつけたりしながら、しかし、それを眼の前の60年代末の状況に重ねたりはしなかったのである。考えてみれば、監獄の壁なるものは、60年よりはむしろ60年代末のそのときのほうが、はるかに現実的だったはずだ。そしてもしかしたら、そうだったからこそ、あのときそれほど熱心に「再会」をうたっていたのかもしれないのである。

 けれども、彼らはそのように意識したわけではない。意識せずに、「ただうたっていたのである。」

 そのずれ、というよりは、現状の暗合がずれとしてしか現われないようなあり方のうちに、歌謡曲の現実態とでもいうべきものがあるのだ。それを、暗合する面だけですくい取ったら嘘である。ずれによってしか顕在化しない歌謡曲の肉体が、見失われてしまうからである。

 松尾和子の「再会」は、佐伯孝夫と吉田正という、当時の本邦流行歌、商品音楽としての「歌謡曲」生産体制のエース級コンビの作品。


www.youtube.com

 そして、上野と同様の「うた」に関する個人的な記憶の断片と、それを介して想起される内的イメージについて、また別の無名子のつぶやきがweb環境には転がっていたりする。このように。

松尾和子は、「ムード歌謡の女王」と呼ばれた歌手です。自宅階段から転落して死んだのが、1992年。今から13年も前のことです。


松尾和子はもともとジャズ歌手でしたが、フランク永井の薦めで歌謡界入りしています。そのフランク永井との共演作「東京ナイトクラブ」がデビュー曲で、代表作にもなっています。その後、和田浩とマヒナスターズと「誰よりも君を愛す」、「お座敷小唄」の大ヒットを飛ばしました。


松尾和子は出自(ジャズ歌手)からか、歌が上手い歌手とされていますが、わたしの感触は違います。歌唱力よりも雰囲気(ムード)の人で、その悩ましげなヴォーカルスタイルが唯一無二です。前述したヒット曲はいずれも共演作ですが、単独での代表的ヒットは、何といっても1960年の「再会」です。


「再会」はムード歌謡というより、シットリとしたポップ調の曲です。歌詞は、切々と女心を歌うという歌謡曲得意のパターンです。歌詞の一番と三番は、それこそありふれた心象の描写ですね。


ところが、二番は異色です。恋愛とはほど遠いと想われる、「監獄」が突然出てきますから。


1960年当時わたしは11才で、「再会」が街に流れていたのを憶えています。しかし、歌詞の中に監獄があったのは知りませんでした。知ったのは、五六年前に買った松尾和子のベスト盤CDを聴いてです。(蛇足ですが、このCDを聴いて、松尾和子はわたしのタイプの歌手ではないことが分かりました。わたしとっては「お座敷小唄」で必要充分です。)


その時は、「ああ、そういう曲だったのか」と少し驚きました。監獄が出てくる曲では、プレスリーの「監獄ロック」が有名ですが、あれは今のヒップホップみたいな曲。「再会」とはまったく情況設定が違います。「再会」は日本歌謡史上稀な、監獄を間に挟んだ愛の歌です。Googleのイメージ検索で、「再会」のシングルジャケットを見ましたが、確かに女が刑務所の塀の前に立っています。


ここで想像力の豊かなわたしは、獄中の男の罪についてあれこれ考えてしまいます。窃盗だろうか、傷害だろうか、それとも寸借詐欺、置き引きだろうか。しかしどう考えても、ピッタリな罪状が見つかりません。これが思想犯だとしたら、問題なく収まるのですが、歌詞にそのようなニュアンスは皆無です。

igallery.sakura.ne.jp

 個人的な体験や記憶が、どのような回路を介してその他おおぜいの想像力と通底しているのか。それについての理屈や理論づけはまたいくらでもあり得るのだろうが、それらとは別に、そのように世間一般その他おおぜいの想像力と、他でもないこの自分、まごうかたない「個」であるはずのかけがえのない体験や記憶とが双方全く無関係にあり得るものではないらしい、という立場に立った「社会」や「歴史」「文化」についての視野は、おそらくこれまであたりまえのように思われているそれらを扱う手続きや手癖の習い性からは、考えられる以上に〈それ以外〉の別もの、になっているものらしい。

*1:ここ数年の自分の作業としているお題に関連して、改めてこういうことも考えなおしてみなければならなくなっているという意味での、まあ、私的な備忘録として。「個」と「集団」の相関と記憶や想像力の水準の関係について、というのは間違いなくあの柳田的な意味での「民俗学」の初志の裡に設定されていた基本的な問い方のひとつではあったはずなのだが、さて。

コロナ遺体のエンバーミング・メモ

時系列と事実を追って説明しなきゃいけないんですけど、まずIFSA(エンバーミングの協会)でも初期の段階ではコロナで亡くなった方のエンバーミングは推奨しない形だったんですね。これはコロナがどの程度の感染力や死亡率で亡くなるか、まだはっきりしない段階での話。


この時点ではエンバーミングの公式団体から「推奨しない」の声が上がっていたし、最初のころの厚生省指針でもコロナで亡くなった方が経由地を最小限に火葬するのが推されていたので、お別れを十分行うよりも感染症を蔓延させないためっていう流れだったわけです。


流れが変わったのは7月の厚生労働省の指針がでたときで、これで葬儀とか通夜を出来る方は検討してくださいって流れに段々変わっていきました。pref.gifu.lg.jp/uploaded/attac…


エンバーミングを施すことが出来れば、ウイルスは失活するので、納体袋の必要性がなくなります。ですが体液が飛散する可能性のある処置なので、エンバーミング技術者への感染の危険性があるのでどうなの?っていうのと、対応するエンバー業者が少ないって問題があります。


これは各事業者の感染リスクと経営判断なので、一概にやるべきだとも言えないことで、エンバー大国のアメリカでもコロナのご遺体は冷却保存されて、火葬を待っていたことからもエンバーすれば大丈夫よりも感染蔓延を防ぐ方が先だったことからもエンバー推奨とまでは言い難いということでした。


対応業者が少ない中で、エンバーすればお別れできるよっていうのは供給が追い付かない問題が出てきます。すべての希望者にエンバーミングを施すことができない可能性があるなかで、この報道の影響って言うのがどうなるか注視していかないといけない所です。


それから火葬場などの対応も、コロナ陽性者の診断がなされている以上は、感染のリスクがなくとも陽性者枠でしか火葬できない(だろう)の問題があります。コロナでの死亡者をどのように扱うかは個別のリスクに対してまだ示されていないと言っていい状況です。


そして料金ですが、通常エンバーの料金は処置の程度にもよるのですが15~25万円ぐらいが原価の相場なので、感染防御をしながらの処置なので、妥当なところだと思います、搬送費用は別途なのでエンバー施設への往復の搬送料金がかかります。


初期の段階から、様々な風評被害のリスクや、感染への可能性があるなかで、エンバーミングを行っていたフューネラルサポートサービスさんは立派です。勇気と社会的意義があるなかでお仕事をされていたことを尊敬するばかりです。


現状の問題点は、希望者が多くなった時にエンバーミングを施せる業者が足りているとは言えない事、そして火葬場や他施設の対応がコロナ陽性者をどう扱っていいかガイドラインがない中での対応なので、各自の判断に任されてしまうことなどがあげられます。


どちらにしろ、コロナで亡くなった方への対応がかわるきっかけなので、報道は公式の資料になるので、対応判断をしていかなくてはいけない形に変わっていくだろうということです。


懸念しているのは、お金どれだけかかっていいからと遠く他県からの依頼も集まってしまう事と、そのお金をもってるかどうかの多寡でお別れの形が大きく変わってしまう事です。なので注視していかないといけないし、大丈夫の気持ちがお金や物理的な距離の問題で折られてしまう絶望感を心配しています。

メディアと「記録」への情熱

 かつてテレビ番組を「記録」したい、と熱望したガキどものその情熱は、音にはカセットレコーダー、映像には銀塩カメラしか機材のない時代とは言え、そもそもなぜあそこまで「記録」したいと熱くなった/なれたのか、ということも含めて、すでに「歴史」の相におけるお題になっているように思う。

 たとえばそれ以前、テレビがなくラジオしか放送媒体がなかった時代、人気のラジオドラマなどの番組を「記録」しようと、一般の聴取者がそこまで熱くなっただろうか。手段としては手もとで文字のメモをとるくらいだろうが、ラジオに対してそのような「記録」はどれくらいされたものだろう。

 映画ならばあり得たらしいというのは、かつての映画好きの中にはひたすら映画館でメモをとってそれらをもとに同人誌的なものをこさえて、という経緯でファンジンのはしりみたいな活動をしていたことは、サイレントの頃からあったことは記されている。

 つまり「批評」的な視線、そちらへ向う情熱が宿るような場において、それら「記録」への情熱も宿るということなのか。だとしたら、それらの情熱は文字/活字の読み書きによって下地が作られた上にスパークするようなものだったのだろうか。ゆるく要検討かつ茫漠と大きなお題としても。

 「所有」の欲望と「記録」の関係。映画ならばその映像自体をブツとして認識できるようになれば「所有」へとつながりやすいだろうが、「音」はどうだろう。レコードのような記録媒体をブツとして対象化できているなら別だが、放送される「音声」をそのまま「所有」したいと思うようになる機序とはどうか。〈いま・ここ〉においてその場限りでしか体験・見聞できない、その体験自体をブツとして認識する/できるようになってゆく過程。「記念」という考え方などとの関連その他も含めて要検討ではあれど。

 そう言えば、かつての写真のアルバムの既製品には、「おもいで」とかそういうタイトルがすでにつけられた商品も割とあったな……「おもいで」とか「おもかげ」とか、いずれそういうポエム的なワンワード散りばめ手法というのは、それによって喚起され得る何ものか、というのがすでにある間尺で定型的なものになっていることを前提にして成り立つ手法ではあったんだろうな。あるいはまた、絵葉書や写真の映像画像系のブツに「キャプション」つける習い性などとも。それらは、「抒情」とかそういう少しムツカシ系のワンワードなどにまで敷衍して考えておく必要ありかと。


 「旅情」なんて言い方ももう忘れられつつあるらしいが、旅行に出て何かキモチやココロが動いた時、つまり「うた」につながるような感情の波立ちがあった場合、かつてならあたりまえに「うたを詠む」ことにつながっていたらしく。前も触れたが、そのへんのもにょらざるを得ない感覚というのは、折口信夫ご一統のフィールドノート的なものが、ある時期そのような「うた」の形式で「記録」されるものだった、というのを知った時の(゚Д゚)ハァ?……(つд⊂)ゴシゴシ感にもつながるのだが。

タワマンノベル、実家編

「たかし君は正月は来れないのかい?中学受験ってのはよく分からんけど、小学生からそんなに勉強する必要があんのかねぇ…」。老いた母の背中は記憶の中のそれよりずっと小さく、皺だらけの肌は干し柿を思わせた。「何言ってんの、東京じゃ当たり前よ!」動揺を隠そうと、つい口調がキツくなる。


群馬県渋川市。「頭文字D」の舞台であることを除けば、何の変哲もない田舎町だ。標高500メートルに位置する実家からの風景は、家を出た27年前と何も変わらない。同じ標高でありながら、刻々と変化するタワマン最上階の我が家からの景色とは別世界だ。同じなのは、気圧でご飯がうまく炊けないことだけ。


山の気候は厳しく、秋だというのに、アルミサッシ単板ガラスの木造平家建は芯から冷える。樹脂サッシLow-E複層ガラスの我が家とは大違いで、モンクレールのダウンジャケット(2021年秋冬新作モデル)を着ても肌寒い。「母さん、いい加減、ここを出て施設に入ったら?」またつい、口調がキツくなる。


「嫌だよ、私は畳の上で死にたいね。タワマンだかなんだか知らんけど、人は土から離れては生きられんよ」。ムスカに反論するシータのように、毅然とした口調で母は語る。父が亡くなり10年。自分以外、もう誰も残っていない家を守ろうとする母の姿は、主なき後もラピュタを守護するロボット兵のようだ。


中高生の頃、昭和から時が止まったような地元が死ぬほど嫌いだった。高校を卒業し、信金か役所で数年勤め、職場で結婚相手を見つけて寿退職。子供を2、3人産み育て、気がつけば一日中テレビを見続ける祖母のようになるーー。そんな将来を受け入れることができず、父と大喧嘩の末、18歳で家を飛び出た。


「持たざる側」である私が国立大医学部卒で開業医の後継ぎである夫と出会えたのも、西麻布の会員制バーがある東京という街だったからだ。へそくりから短大への進学費用を出してくれた母には足を向けて眠れない。だからこそ、こんな所でただ死を待つのではなく、もっと余生を豊かに過ごしてほしかった。


「気持ちは嬉しいけど、こうしてたまに顔を見せてくれるだけで十分だよ。それよりアンタ、無理してないかい?都会は最近、親ガチャとやらが酷いんだろ?宮根さんも坂上さんもそう言ってたよ」暇を持て余した地方の高齢者の情報源は95%がワイドショーだ。余計なことを吹き込まないでほしい。


親ガチャ。その言葉を聞くたびに6年前を思い出す。「慶應幼稚舎暁星小学校、両方落ちるなんて。勿論、たかし君は悪くないんでしょうけど…」義母がため息をつく。元麻布のジャック幼児研究所では、合格確実と言われていた。「原因があるとすれば、母親のせい」。義母の視線は、暗にそう伝えていた。


家はタワマン最上階、息子のたかしはSAPIXαクラスで筑駒開成合格圏内。開業医の旦那と何不自由ない暮らし…これが必死に作り上げた虚像であることは私が一番知っている。たかしが将来医者になれなければ、義母に何と言われるか。ストレスで、いつしかママ友にマウンティングをとるようになっていた。


もちろん、母に弱音は吐けない。「たかしの受験が終わったら、今度は一緒に来るよ」そう言い残し、駅に向かう。山々が色付き始めていた。あの頃、退屈で死ぬほど嫌いだったはずの景色だが、今となっては味わい深く感じる。タワマン最上階の強烈な紫外線で鼓膜が弱ったのだろうか、視界が涙で滲んだ。


高崎駅で新幹線に乗り換える。太陽は関東平野の果てに沈み、暗闇のさいたまを切り裂くようにE4系MAXときが飛ばしていく。「MAXときのラストランが見たい!」とねだるたかしに、「そんなことより勉強!」と叱った私は母親失格かもしれない。でも、東京で生きていくと決めたんだ、もう後戻りはできない。


東京駅に着き、峠の釜飯の空き容器をゴミ箱にぶち込んだ時には感傷的な気分は霧散し、いつもの自分だった。「運転手さん、豊洲まで」。タクシーの窓から夜景の光が流れ、タワマン群が迫ってくる。スタンフォードの夫がなんだ、負ける訳にはいかない。「大丈夫、大丈夫」、秘密の言葉をそっと呟く(完

しまった、今読み返したけど紫外線で傷つくのは鼓膜じゃない、網膜だ!たわわママへの対抗意識だけで一気に書き上げたが、やはり粗いな…。


ちなみに連続Twitter小説「タワーマンションは黄昏て」前作はこちら

「あなた、SAPIXのことなんだけど…」帰宅すると、妻が暗い顔をしてテーブルに座っていた。なんだ、夏期講習と8月分の月謝、しめて30万円はもう払っただろう。こっちは障害を起こした職場のITシステムの要件定義書紛失が発覚して大変なんだ…喉まで出かかった言葉は、妻の深刻な表情で引っ込んだ。

前前作はこちら。改めて読み返したが、俺はどこを目指して何をやってるんだ…。

「あら、お買い物?」しまった、今一番会いたくない人間に会ってしまった。ダイエーの買い物袋をさりげなく隠そうとしたが、時すでに遅し。タワマン高層階の住民、たかしくんママ(45)はニヤリと笑った。「ダイエーね、安くて品揃えも良いわよね」。手には高級スーパーAOKIの紙袋が見える。