

00〜05世代の女子、構造的に詰んでるんだよな。
— ねこひめ (@nekohimereal) 2026年5月27日
「時代の隙間に落っこちてしまった」世代。大きく分けて3つの観点から、その理由を説明できる。
①再現性のない母親
②父性に育てられた最後の世代
③評価規準機能不全時代
では、まず①再現性のない母親 から。
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00〜05世代の女子、構造的に詰んでるんだよな。
「時代の隙間に落っこちてしまった」世代。大きく分けて3つの観点から、その理由を説明できる。
① 再現性のない母親
② 父性に育てられた最後の世代
③ 評価規準機能不全時代
では、まず①再現性のない母親 から。
① 再現性のない母親
この世代の母親世代は、概ね氷河期前期世代からバブル後期世代。つまり、男は男であり、女は女である、というのがまだ社会の当然の常識としてあった時代で、それこそ男女平等化の動きこそあれど、実社会で浸透している考え方ではなかった。
つまり「将来は誰かの嫁で母」である
そうなったら人生設計はわりかしシンプルだ。金を持っていて魅力のある男と結婚することを前提に人生を進めればいい。仮に失敗したとしても、皆がそうしている環境下なら、理解は得られるだろう。
さて、現代はどうだろうか。結婚して人生どうにかなる、みたいな設計はもはや通用しない。
つまり、「女性である事」それ自体で人生設計が出来なくなってしまった。確かに、まだ若い女そのものの価値は人口の多い中高年男性からの分厚い需要で保持されてはいる。
しかしながら、同世代の男子を考えてみてほしい。「俺が養う」なんて人、居ますか?殆どいませんね。そういう事です。
「若い女Pay」自体はまだ機能不全に陥っていないけれども、もう既に女であるから将来が保証されるという時代ではなくなっている。つまり、女だからどうにかなったタイプのお母さんの下に生まれたこの世代の女子は、「母親がまるで宛にならない」ところから人生が始まる、ということになる。
② 父性に育てられた最後の世代
母親について触れたのと同じように、父親もまた「男」である事が当たり前だった世代である。つまり親父がちゃんと親父をやっていた最後の時代ということになる。最近の小中学生のお父さんを、塾講師をやっていたので知っているのだが、とにかく、「オヤジ」じゃないんだな。なんだかこう、皆イクメンで子供の行事に顔出して、みたいな感じだ。家に母親が二人いるのか、みたいな印象を受ける。あくまで書いてる本人の親父がそういうのに顔を出さないタイプだったのはあるけども、本当に最近のお父さんは家庭に対して積極的だ。
さて、「時代の隙間」で育った当該世代の女子が見てきた父は、家庭差がでかいとはいえ、「親父タイプ」も多かったのである。家の事にはあまり関わらないけど、男としての責任は果たす。余計な事は言うけど出すところで金は出してくれる。ママがヒステリックになったときも落ち着いていてくれる。そういう「親父」になれそうな同世代の男は、果たしてどれくらいいるだろうか。そう、これに関しても完全に欠如しているのだ。
「知っているのに、どこにもいない」
そして、そういう親父じゃなかった、もしくは片親で育った女子は周りから聞いた話で「あったはずの父性」を渇望する。
これが「ナヨナヨお父さん」が普通の時代に育てばなんてことはない。しかし、昨今の当該世代女子の発狂を、元カノの零した言葉を、どこかで聞いた愚痴を並び立ててみれば、「受け取れたはずの父性」の欠如が少なくない割合を占めているのだな、という印象を受ける。
故に「父性に育てられた最後の世代」なのだ。もう手に入らないものを体験している。
そう、父親も、母親も、もう成立し得ないものが多数派だった最後の時代なんだ。
だからこの世代の女子は「令和最新に適応しているフリをしているが、思考のベースは平成」これに苦しむ運命なのだろう。
③ 評価規準機能不全時代
漢字を並び立てたらなかなか圧の強い感じになってしまった。しかし漢字の通りである
「何をもって自分を評価したらいいのかの基準が多様化・細分化しすぎて、機能不全を起こしている時代」の先頭で、青春期を迎えたのである。
ちょうど、あらゆるものが切り替わった。
大学受験形式は一般試験から推薦試験が多数派になった。
SNSでどれくらい影響力があるか、みたいな新概念ができた。
多様性が認められる社会の中で、ルッキズムが加速し続けてきた。
結婚なんて、と言ってみるけど、推しだって結婚していく。
どうしたら。
判断基準は霧散した。「女もキャリアだ、なんなら同世代の男を追い抜いていけ」と発破をかけてみてもいいけども、あの頃同じ事言ってた仲間はしれっと交際数年目で、3年目くらいで結婚していった。
「あなたのままでいい」とは言うけれど、ルッキズム社会が、マチアプが、点数を付けてくる。
この世代の女子の積んでいるOSは、直近で述べたとおり「令和のソフトを載せられる平成式」で、知ってるんだよな、お母さんが、お父さんが、若い頃どうやって生きてたのかを
「ぶっちゃけ、そっちの方が良かったんじゃないか」と思ってみても、「正しい令和感覚」に矯正される。
何が正しいかわからないから、「女性の権利」を訴えるインフルエンサーを拡散して、「でも男女の差ってあるよな、というか男が引っ張るべきだろ」みたいな尖った主張をする男の投稿にそっと鍵からいいねを押してみたりする。色々な正解に頭を乱されながら、でももう成人してしまったんだよな。
母親の辿ってきた道はもうない。パパみたいな男はもういない。何を基準にしたらいいのか分からない。
更に後ろの世代は先輩の失敗を観測して対策すればいいけど、彼女らは時代の隙間に落っこちて、救済されることはない。
故に「詰んでいる」んだよな。
俺は同世代にあたる男だが、男はいつの世も大して変わらないだろう。どうにもならないなら、ならなかった人間なりに楽しく生きていった先人達が沢山いる。
でも、「答え」を出せずに老けていった先輩女性が辿った道に、輝きはあるのか?
俺目線では、探すのは難しい
というあたりが、めちゃくちゃモテてきて常日頃から女の子と喋ってたとかではないけども、普通の男なりに話して向き合ってきた推測だ。多分俺には分からないことも多いだろうが、同じ時代を生きた男としては、こういうふうに見える。
以上
話をつまらなくして悪いけど、男も
① 稼ぎさえすれば黙ってついてくる母世代のような女性はもういない
② たまに吠えれば後は妻が子どもを何とかしてくれる時代はもう終わった
③ 世間の多様な価値観に触れて道を迷ってる のは同じ。
男女とも詰んでると諦めず新しい生き方を模索すべき時代なのよ
もう少しだけ下の世代だけど、①、②は特に共感できるな。まず①について 男女の機会平等は素晴らしいけど、男性より体力が劣るのに同じ働きを求められると中々キツいものがある。嘘松っぽすぎる実話なんだけど、高校時代マックの向かいに座ってた女子大生2人組が
— 🧵いとを℉ (@1to_0kashi) 2026年5月27日
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もう少しだけ下の世代だけど、①、②は特に共感できるな。
まず①について 男女の機会平等は素晴らしいけど、男性より体力が劣るのに同じ働きを求められると中々キツいものがある。嘘松っぽすぎる実話なんだけど、高校時代マックの向かいに座ってた女子大生2人組が「正直男女平等とかどうでもいいから普通に専業主婦やりたくね?」『それなら飯炊き要員で良いんだよね』と言っていて衝撃だった。私はバリバリ働くつもりだったので(まともに働きたい女性が不都合になることを大声で言ってくれるなよ…)と思ったが、今考えると彼女たちの主張もわからなくはない。
彼女たちはそれこそ00〜05世代で専業主婦の母親の元で育ってきたかもしれないし、母親をロールモデルにするのも当然だ。でも今の時代それだけで生きていけるのか、という疑問もある。特に東京で生活するとなると、かなり高所得の男性と結婚するか、共働きするかしかないので。
それから②について
私の父親はちょっと変わったタイプなので父性云々の話はできないのだが、最近気づいた事実として「自分の父親は同世代の中でもかなり上澄みだった」ということがある。
00〜10辺りの世代だと両親とも氷河期世代だったりするのだけど、そもそも就職氷河期の時代に結婚して子供をもうけている時点でかなり優秀なんだよね。大体の女性は恋愛するとき無意識に身近な異性のスペックを意識していると思う。そんなつもりは毛頭ないのに、歴代彼氏が父親と似たタイプだった、なんて話はよくある。
ただ、00〜05世代が周りの男性と恋愛しようとしたとき、思ったより自分の父親みたいな人がいないという現実に直面するはず。父親のように若い頃から大企業勤めで家族を養える給料を貰っている異性を探すのは意外と難しい。さらに最近では円安物価高に給料の上げ幅が追いついていないから、実質賃金で考えると該当する人間はもっと少なくなる。結果として自分たちの中では"普通"の条件で婚活しても高望みになってしまう。かといって妥協して結婚したからといって幸せになれるとも限らない訳で。
00〜05世代の女性たちは、平成ベースの価値観で育ったものの、令和の情勢やコンプライアンスに適応させられているから、その狭間で宙ぶらりんになっていると思う。平成という理想と令和という現実の間で最適解を探り続ける人生は、他の世代に比べてハードモードであるに違いない。
この世代の母親像が「専業主婦で家を守る人」一色じゃなくなり、仕事も持つロールモデルが増えたのに、娘にはその「再現不能な生き方」だけが刷り込まれてしまった歪み。母のようにはなれないし、ならばと違う道を探すにも地図がない、その宙吊り感が辛い。
00年代生まれの若い衆世代、ということは、親は概ねいわゆる氷河期世代で、つまりざっくり団塊ジュニア世代でもあるわけで。昨今「老害」ムーヴがイメージとしても実態としても集中的に可視化される世代あたりの、つまりは孫世代ということになるわけで。このあたりの雑な「世代」理解の枠組みは、雑ではあっても社会の構成、それがどのような「逃げられない要因とそれに規定される属性」含みで成りたっているのか、というあたりのことをうかうかと忘れてしまわないためにも、最後の歯止めのひとつとして大事なのだといつも思うようにしている。
団塊ジュニアの氷河期世代の生き辛さみたいなものをベースにしたさまざまな恨み辛み毒吐き言説の類は、すでにもうミーム化しつつある部分も含めて、決して無視してはならない本質的な「分断」の現在形を測候、言語化して考えようとする際、重要な民俗資料的素材になっていると思うけれども、それとは少し別なところで、さて、「親」世代であるはずの団塊世代(と、そこにまつわる団塊的なるもの)に対する親子対立――要は、父殺しや母殺しといったモメントへ向かう葛藤の気配がちょっと奇妙なほどに欠落しているように見えるのがずっと気になっていた。
いわゆる「反抗期」にあたる精神的な経験が希薄になっていたのか、たとえ通過儀礼的な意味あいとしてでも、それらをスキップしてしまうような背景が社会的にもあり得ていたのか、など、この世代に関して必ず言われるあの「勝ち組/負け組」の苛酷な世代内「分断」の様相と比較しても、生物的にも社会的にも「親」世代であったはずの団塊の世代への対峙のモメントが、個々の生身の生活史や体験に根ざしたものでなく、いきなり通り一遍大文字の、最も薄味通俗的な意味での「世代論」の水準でしか出てこないようには感じている。
それは、もしかしたら同じ意味あいで、なのかもしれないが、世代内での男女間の問題についての言語化に関しても、どこか他人事というか初手から大文字というか、同じく個々の生身の生活体験に紐ついた、もちろんだからこそめんどくさく入り組んだものにならざるを得ない領域の〈リアル〉をうまく、あるいは小賢しく回避したところでのもの言いにならざるを得ず、まただからこそ、世代を越えたところでの問題化にだけムダに効率的な問題提示として流されてゆく、という事態とパラレルな印象ではあった。このへん、これまたいわゆる文学などに収斂されてきていた人文社会系の「教養」とそれに関わる言語空間の煮崩れ過程ともどこかで関連してくる話ではあるのかもしれないけれども。*1
そんなこんなの各種違和感がわだかまりながら推移してきていた、これらいわゆる「世代」論的なことばの水準の隔靴掻痒感に、世代がひとめぐりして団塊の孫世代になってようやくこういう問いかけが世代内でまず兆してくるようになったことは、おそらく悪いことではないのだろう。少なくとも、「自分の父」「自分の母」という射程距離と解像度とで問いを自分ごととしてとらえようとし始めていること、言語化をそこから始めてできるならその先へ、といったひとまずまっとうな身の丈の間尺からの思考を延ばしてゆこうとしていること、などは、彼ら彼女らの親世代――「親」になれている時点で「勝ち組」だ、という怨嗟も含めて、それら氷河期世代がめぐりあわせゆえの苛酷な状況をくぐってきたことによる世代内での煮詰まりや蠱毒化の弊害を、ここにきてほぐしてゆける糸口が発見され始めているのかもしれない、と感じたりもする。
親世代である氷河期世代における「男女」問題、がうまく言語化されてこない/これないままだった(らしい)こと、のツケのまわり方がこういうかたちで、という言い方も、まあ、可能ではあるのかも、ではあり。そしてそれは、あれだけ猖獗を極めてあたりをうっかり考えなしに焼き払い続けてきた本邦倭フェミorジェンダー論界隈由来の言葉やもの言いも、その本質として実はそれら氷河期世代的な(と、ここは敢えてわかりやすく当面の対応としてくくってはおくけれども)世代内的な煮詰まりや蠱毒化と同根な場所から生えてきていたものかもしれない、という、あまり当たっていて欲しくはない気づきと共に、でもあるのだが。
*1:こういう意味での「文学」の不在は「内面」の欠落、あるいは「内面」に見合う一人称的な「自分」の輪郭がぼやけて主体があらかじめ失われてゆく過程とも関わっているのかもしれない、というこれまた年来の大きな問いと共に。












