【倉庫】札幌国際大学問題関連web上でのリリース

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 映像・文字混在していますが、とりあえずweb上で参照しやすいものをざっくり時系列にて。必要あれば今後、追加してゆきます。*1

2020 03 31【NHK】札幌国際大 ・学長と理事長 対立・留学生 受け入れ めぐり対立
https://youtu.be/zX1uOG8oZ-Q @YouTubeより

2020.07.09【NEWSWEEK日本版】
「かくて私は教授を『クビ』になった」大月隆寛、地方大学の窮状を語る
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/post-93911.php

2020.07.31「懲戒解雇」以後――嶋貫和男という「盾」 - king-biscuit WORKS
https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/07/31/000000

2020.09.14【ch桜北海道】中国人留学生大量受入問題、追及したら懲戒解雇に![R2/9/14]
https://youtu.be/a9kxBmbE9XY @YouTubeより

2020.09.18【ch桜北海道】札幌国際大学に札幌入管の「指導」入る[R2/9/18]
https://youtu.be/BFOz8MQ-KV4 @YouTubeより
※26:00:00頃~

2020.10.30【特別番組】札幌国際大学を不当解雇で提訴!大月隆寛元教授[R2/10/30]
https://youtu.be/-CeBzC9Pajw @YouTubeより

2020.12.09【特別番組】不当「札幌国際大学懲戒解雇裁判」現状報告・霞ヶ関のお役所気質[R2/12/9]
https://youtu.be/sx0sr7weC80 @YouTubeより

2020.12.16【DHC】2020/12/16(水) 上念司×大高未貴×居島一平虎ノ門ニュース】
https://youtu.be/F7vUZpkZE8M @YouTubeより
※1:15:00:00頃~ 大高美貴のコーナー

2020.12.31 【 弁護士ドットコムニュース 】
地方私大はなぜ「留学生ばかり」になるのか? 「生き残り戦略」の難しい舵取り 
大月隆寛
https://www.bengo4.com/c_16/n_12250/ @bengo4topicsより

2021.01.27【特別番組】「人間と正義の為に」~札幌国際大学大月教授不当解雇問題~[R3/1/27]
https://youtu.be/Z7dl0oxiPM4 @YouTubeより

2021.02.04【ch桜北海道】驚愕!北の大学で進む中国侵略の闇[R3/2/4]
https://youtu.be/EQnocyFzgpI @YouTubeより
※20:00:00頃~ 後半のコーナー

*1:追加しました……210208

〈いま・ここ〉と「個」の「まるごと」・メモ

*1
 「現在」≒〈いま・ここ〉は常に自分ごと、「個」の体験としての現実でしかない。

 だから、そういう「現在」から「歴史」を考えてゆくことは、「個」の体験としての現実の上にどのような時間が堆積してゆくか、を考えることでもあったりするらしくて、な……「個人史」とか「オーラル・ヒストリー」wとか持ち回ってはしゃぎ回る向きは、そういう意味で初手からおそらく縁なき衆生なんだと思う。

 「個」と「社会」とか、「部分」と「全体」とか、いずれそういう図式の範疇からとりあえず「おりる」ことを仮説的にでもやってみようと思うかどうか、あたりがまず分岐点かな……「個」はそのまま「まるごと」でもあったりする、とか、な。そういう方向からの「多様性」の認識の仕方ってのも、実はあるんだろうと思う。


king-biscuit.hatenablog.com
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*1:日々TwitterのTLとのつきあいで、こちら側の身の裡にうっかり宿る断片や発想、枝葉繁らせてゆきそうなもの思いのタネなどを書きつけておくことの大切さ。自分のこれまでの考えの理路や来歴を確認してゆくための足場としても。

Twitter≒つぶやき、ではない


 不特定多数の眼に触れさせることが常に前提にならざるを得なくなったことで、ある意味以前のクロウト感覚、自意識がうっかりカタギじゃなくなってゆくことの危険に誰もが平等にさらされるような環境になってしまっているらしいこと。

 鏡みたいな不特定多数≒「みんな」の眼が常にアタッチメントみたいにくっついてしまった自意識は、思ったこと、もまたあらかじめそれら「みんな」に向けて思ったつもりになったこと、を先廻りして自分の思ったことと思うようになるらしく。

 だから、Twitter が「つぶやき」ってのは、ほんとは日本語としての訳し方が間違っていたようにおも。


 ネットに限ったことでも、初めて知恵袋を読んだ時とか、2chスレをROMってる時とか、iPhone初めて触った時とか、不特定多数の「みんな」にチューニングされてゆくような感じがする、ああいう事態がそこかしこに、である。もはやいちいち意識しないくらいに。

 たとえば、そう、最近の若者や子供が、インタビューで「ちゃんと答えられる」事を気味が悪いと思わないのだろうか。自分は、かなり気味が悪いし、それに不健康で風通しの悪い内面の気配を否応なくそこに察知してしまうのだが。

「地方」の煮崩れてゆく過程・メモ

*1

 東日本大震災は全国の地方自治にとっても不幸でした。復興名目でやって来た有象無象が味をしめ全国の過疎地に散らばっていった。運悪く剛腕首長不在の田舎が定住人口を諦め交流人口の増加に望みを賭けたタイミングで。田舎は都会からの若者で活気付くかも知れないと期待した。


 小泉改革の後、それでも気を吐いて独自の小国の幸せを実現した少数の老獪な首長が10年代以降続々と引退、代わりに地方自治に入ってきたのがNPOSFC社会学ゼミ、SNS、イケハヤ的楽したい自分探し勢。見かけつるんと小洒落て じじばば住民から上澄みをもらうことばかり熱心。つまらなくなりました。


 剛腕首長の引退、公務員の減少、震災、SNSとソーシャルビジネス、エセNPOの勃興、都会の労働市場から零れ落ちた自分探し勢の増加、若者と交流したい地方の背に腹替えられぬ事情。これらが一気にやって来たのが10年代。まさに「地方の有り様が煮崩れていった」時代。


 調査や取材で自治体を訪問する。小泉改革まではどこの自治体にも首長の懐刀的総務課長がいて、役場各課から3セクNPO、有力者、名物じじばば、頑張る農業者など一括してコーディネートしてくれた。ありがたかった。今はそんな総務課長はいない。役場に人材がいないのだ


 人材不足の自治体に入り込んだのが前記の有象無象たち。


 7年前、徳島県の中山間地で信じられない言葉を聞いた。都会からIターンで移住して来た自分探し風の若者の言葉。「そろそろKMKT町も終わりやと思う。人も増えたしマスコミにも出た。近いうちKMYM町に移住しようと思う」

*1:広義の「社会」「地域」を相手どる学術領域全てに関わってくる〈いま・ここ〉の現実認識。

「30年前」という距離感

*1

 『トンデモ本の逆襲』(1996)で話題になっていたが吉田信啓という古代史研究家は(1936~2016)は自分も子供の頃から食べていたというのを根拠にトウモロコシがアメリカ大陸起源だというのを否定していた。昭和初期生まれの人は戦前の日本は連続性を維持していたというイメージを持つことがままあった。


 「江戸しぐさ」の芝三光師が、江戸ではトマトが滋養食だったとかバナナは皮をむいて包丁で切って箸で食べていたとかかちわり氷を売っていたとかショコラ入のパンがご馳走だったといっていたのは彼自身の子供時代と江戸が彼の中で地続きだったから。


 まあ、戦後、特に高度成長期の急激な社会の変化をリアルタイムで経験したからなんだろうけど、「30年前」の社会風俗と称して60~70年代くらいのイメージを語っている記事が話題になっているけど、漠然とした昔というイメージで時代錯誤なことを語ってしまうというのはありがち。それを思うと昭和末期から平成初期にかけて、バブル経済とその崩壊による急激な社会変化を経験した世代が昭和~平成初期の頃を地続きとして認識してしまう人がいるのも仕方ないかと。

 おっちゃんあたりになると「30年前」は生きてきた間尺のおよそ半分、それこそ「30年前」が「自分がまだ生まれる前の時代」で「他人事」にしてしまえるギリギリ最後の時期を生きていた頃、ってことになるんだが。

 それから先の「30年」(何年でもいいが)というのは、自分が生まれて生きてきた時代について、それ以前の時代とのつながり具合において「他人事」にならない、少なくともそうしてはいけない程度に「この世に生きてあることの責任みたいなもの」が宿ってゆく過程だったかもしれん。

*1:「むかし」というイメージとそこに込められている時間・歴史感覚の濃淡について。現在化された歴史、という懸案のお題関連として。

サブカル女子婚活マンガ・メモ

*1


 別に好きじゃないけど今は彼氏いないから適当な男と付き合うのも、ぶっちゃけ見下してる男と付き合ってセックスまでできちゃうのも、その彼氏と本当に好きな男を比べてしまうのも、その彼氏の『発言の裏』を悪いように悪いように解釈しがちなのも、『ぱっとしない彼氏』を友達に紹介したら「優しそう」と評価されるのも、ぶっちゃけ自分のレベルに釣り合ってる男を格下と思ってしまうのも、好きな男とのセックスなら絶対に高く評価するベッドの上の営みなのに微妙な男がするソレだと冷めた評価を下すのも、『おしゃれカルチャー』に妙にご執心なのも、『憧れの世界』の表面に憧れてしまうのも、お笑いライブとか行きがちなのも、文化系のお仕事をやっている友人とつるもうとするのも、自分の世界をつまらないと思ってしまいがちなのも、このつまらない世界から連れ出してくれるなにかがいつか来ると漠然と思ってるシンデレラ願望があるのも、自分を客観視してると自認してるのに全然行動に伴ってないのも、『自虐』に変な自意識を持ってるのも、些細な切っ掛けで今までの不満が溢れかえって噴火するのも、自棄になって『普通じゃない行動』を取ろうとするけどそれも大して面白くもない行動だったりするのも、全部『よくあるつまらない女の話』ですやん。

 これら「よくあるつまらない女の話」が、そのまま概ね「フェミニズム」界隈に吸収されてゆき、別の「問題」に編制されてゆく過程というのもあるわけで。

 ただ、オンナの人がたは昔もずっと「夢見がち」な別の世界を生きていた、あるいは生きさせられていたところはあるわけで、それこそ「将来はお嫁さんになるの」的な定型のファンタジー(だろう、やっぱ)を〈リアル〉に生きる仕掛けの中にいることが、少なくともある時期以降のマチ育ちの「お嬢さん」「良家の娘」の定型にはなっていたはず。そういう意味では、ここで言われているような「サブカル女子」(これは割と今世紀入ってから定型化されてきたような)もまた、違う意味でのファンタジーの〈リアル〉を生きる仕掛けの中にあると言えなくもないのかも。

 だから、一方でこういう「もうひとつの〈リアル〉」をココロの安定と平安のためには必要としてくるのもまた、必然なのかも知れず。 *2
www.huffingtonpost.jp
 「サブカル女子」の今様オンナの子ファンタジーのありようというのは、そのままだと現実に、自分の人生の個別具体を設計してゆくようにはうまくつながりにくいわけで、まただからこそ各種専門学校やその他セミナーなどの類が「あなたの夢、かなえます」的な煽りと共に口を開けて待ってもいるわけで。オンナとしての「シアワセな人生」の定型が、ファンタジーの地続きとして完結していた(ように見えた)「おはなし」の成り立ちがもう寸断されてバラ売りされるようになって以降、そして雇均法に象徴されるような「社会に出て働く自立したオンナ」のイメージが新たなファンタジーとして織り込まれるようになって以降、いずれにせよ一枚岩などではとっくになくなってしまった以上、「人それぞれ」という自由放任の無惨の中へ誰もが「平等に」放り込まれるようになったという次第らしく。

 それでも、生きものとしてのニンゲンの必然として、種の保存、世代を越えた個体の再生産は求められ続ける。「結婚」「家族」という制度は、それが制度という意味での「おはなし」であるにせよ、しかし確実に逃げようのない生きものとしてのニンゲンの〈リアル〉に根ざしている「おはなし」ではある以上、どこかで折り合いをつけてつきあわねばならない点が、他のファンタジーの類と一線を画すべき特質になっている。だから、「お嫁さんになる」という一枚岩のファンタジーが寸断され、そこに至る経路などもすでに寸断されて見通せなくなっている状況でもなお、何らかの頼れる「おはなし」が必要になる、だから「婚活」というまた別のファンタジーが大きな需要と共に立ち上がってくるという概略。

 「サブカル女子」のファンタジーは、そのままでは逃げようのない現実と結びつきようのないもののはずで、それはかつての高等遊民、「夢みたいなことばかり言って生きている」ような作家志望や芸術家志望のファンタジーと基本、地続きのものではある。ただ、それがオンナの子たちにまで、しかも本当ならそのようなファンタジーにとらえられる以前に「お嫁さんになる」という強固な一枚岩の「おはなし」のファンタジーの裡に生きることでそれなりに安心立命が得られたような、世間一般その他おおぜいの個体にまで、うっかり「夢みたいなことばかり」夢見ることのできる環境を与えたことの功罪というのは、やはり立ち止まって言葉にしておかねばならないことなのだと改めて思う。例によってのいまさらながら、なのだけれども。

*1:webである時期から普通になった、マンガによる生活体験を素材とした「あるある」吐露に対しての一刀両断。殊に「女性」が「婚活」「恋愛」などを媒介に表現するそれに対する。

*2:また一方で、こういう認識も。アメリカにおいて「さえも」、将来は結婚して家庭を守るという徳目がオンナの子たちの裡に確かに宿っているらしい、という「驚き」と共に。ameblo.jp

「みんな」と「ひとり」

 人はひとりでなく、タバに集団に組織になった時にこそ、いちばんひどいこと、苛酷な仕打ちができるようになるものらしい。ひとりひとりは「いい人」というのは、そういう意味で間違いではなく、おそらく真理なのだと思う。

 その仕打ちや行動言動が、自分ひとりが引き受けなければならないものではなくなる、自分のやったことや言ったことであっても、それは自分というひとりの行いではなく、自分もその中に包摂されている(と思っている)「みんな」のやったこと言ったことだ、という言い訳逃げ道が自動的に準備される。

 そういう「みんな」というのは、かつてのムラ的な共同性、それこそ「皆の衆」的な公共感などと本当に地続きのものなのだろうか。どこかで必ず不連続、断絶したところがあったりしないのだろうか。

 イエやムラ、いずれそういうもの言いでとらえようとされてきた「封建的」「因習的」「伝統的」な共同性の縛り方というのも、〈いま・ここ〉のわれわれが確かに察知している「みんな」の抑圧と、本当に全く同じもの、だったのだろうか。

 「自己責任」という近年やたら使い回されるようになったあのもの言いの「自己」にしても、本当に自分ひとりの自分という意味で使われているのだろうか。「みんな」から疎外されることへの過剰な畏れや不安が背後にべったりと貼りついたりしてはいないだろうか。

 御用聞きや出前持ちといった半径身の丈日常生活レベルの「便利」をもたらす「サービス」は、基本的に「私」の領分で宰領されるものだったわけで、それが「公」に取って変わられるように少なくとも「感じる」ようになっていった経緯というのはあるとおも。要検討なれど。

 それはおそらく「家庭内労働」と変換されるようになった「家事」一般についても適用可能なのだとおも。「私」の領分で宰領されるべき「サービス」とそれによってもたらされる「便利」「安定」によってようやく支えられる「日常」という領分。

 アマゾンやコンビニが「インフラ」だと言うor思ってしまう、というのは、それらの「サービス」の背後にどれだけ具体的なブツや仕組みが横たわって支えているのか、についての想像力自体が枯渇し始めていることのあらわれという面はあるとおも。

 「インフラ」(定義はともかく)と思ってしまう、ということが、そもそも「インフラ」をそのような対消費者感覚への「サービス」として「だけ」とらえるような感覚が、世間一般その他大勢的にはあたりまえになりつつあることでもあるような。

 「便利」(このもの言いの内実の変遷も要検討なのだが)をもたらしてくれる眼前のあらわれ、をそのまま「インフラ」として「なくてはならないもの」ととらえてしまうココロの習い性の浸透。

 そういう「サービス」(語感がちょっとアレだが)を「私」から「公」≒「市場」の領分に引きずりだしてしまうことで「対価」が発生するわけで、それはもうケケ中パソナ的獰猛の餌食になる下ごしらえ完了なわけで。

 「市場」≒「公」から隔てられた領分としての「私」を維持してゆくための条件というのを本質的に考える足場を、さて、日本語環境での「教養」は準備してきただろうか。