「公金」乞食と「公共」の中の人がた

 補助金や助成金、名目や予算上のたてつけが何であれ、いずれそういう「公共」からの出費をみかじめ料や口止め料的な意味あいで、お役所世間で大過なく見過ごしてもらえる程度の手続き的な正当性も、時には地雷原疾走的な濃厚グレーゾーンも踏んづけながらも整備した上でなんだかんだでつまりは「適切に」出費する、というのは、まあ、行政運営上の手口のひとつとしてあらゆるところであり得てきたかたち、かと。

 昨今ようやく知られる&言われるようになってきたあの「公金🐭🐭」にしても、意図的か否かはともかく、結果的にそれに加担していることになる「公共」側の意識としては、そういうある種の「みかじめ料」的な厄介払い、ないしは口止め的な意味あいも含めての必要悪、といった認識が、どうやら伝統的に下地にあるのだと思う。

 そういう「公共」の側の中の人がた、日々現場で文書や書類作業に追われる現場の末端から、概ねデスクや居室に居座っての指示や判断、そこから会議や折衝に忙殺され、議員や議会、関係団体その他あれこれとの調整に追われるような一定以上の「エラい」人がたに至るまで、いわゆるお役人側に共通している意識としては、あの手この手で「公金」支出を求めてくる各種組織なり団体なりは概ねそういう「公金にたかろうとしてくる乞食」であり、それは議員や弁護士を伴って生保の申請、昨今だと外国人居留資格の取得にやってくるような連中と基本的に同じなんだろうな、と。

 霞ヶ関であれ都道府県市町村レベルであれ、実際に現場で日々起こっているあんなワヤそんな理不尽のあれこれを確かに把握しているにも拘わらず、結局のところ「民間(地元)が独自のご判断でやられていることですから……」といった殺し文句で見てみないふりするのも、そういう「乞食」に関わって面倒に巻き込まれたくないからという気分は正直、あるはず。

 「公共」への信頼がみるみる低下している昨今の状況、もちろんよろしくないことは言うまでもないが、ただ、同時にその「公共」への接し方が一方的に「消費者」目線、それこそ昨今のもの言いだと究極のテイカー気質無限大で対するのがあたりまえ、みたいなこちとら世間一般その他おおぜい国民市民選挙民サマの間に濃淡はあれどそれなりに共有されてしまっているこういう戦後80年の間「自由」と「個人」と「民主主義」の野放し過程で醸成されてきたものらしいココロの習慣と、それと合わせ鏡のように反映し結像している「公共」の側からの「たかりにくる乞食」という見方に根ざした軽侮見下し不信感ありあり気分が共有されている状況は、共に構造的な危機として認識されるべきではあるはず、なのだが、さて。

 公共サービス、ともいうあの「サービス」の内実が、「奉仕」としか置き換えられていないあたりの問題が、ここでもまた。警察も軍隊もひとしなみにそういう「サービス」であること、そういう感覚が未だ本邦では「そういうもの」としてなじんでいないこと。

 「公務員」というもの言いにも、そういう「サービス」本来のふくらみや豊かさ、自分ごととして受け止め得るだけのココロの習慣が一定程度宿るようになって初めて、かつて「公僕」などと呼ばれることもあった仕事の輪郭にも、同じく自分ごととしての誇りや矜持、「やりがい」などもまた、うまく失地回復させてゆけるものではあるんだろうが、ここでもまたもや、さてさて、としか言いようのない現在。

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