人文社会系の信頼回復?・メモ

 人文社会系の信頼回復のためには、まず、日本語を母語とする情報環境での日本の近現代、明治維新前後から現在に至るまでの歴史や文化、経済や政治、民俗レベル含めた生活史などについての語られ方そのものがさまざまな偏りの上にあることを淡々と自覚し認識することから始めるしかないのだとおも。

 そんなことはあたりまえだ、わかっている、という風に脊髄反射で反応したくなったのなら、それがおそらく一番ヤバい。

 その脊髄反射で反応したくなっていること自体が、「そういうもの」化した蠱毒エリジウムな言語空間&情報環境の内側だけでめでたく育ち、社会化してきた症状だったりする。

 「そういうもの」化した言語空間&情報環境においては、脊髄反射的な「反応」の「速度」が、まるで超伝導のように異様にあがる。打てば響く、どころか、打たずとも勝手に相互に反響、共鳴しあう連鎖反応だけが日常化している蠱毒エリジウムなエコーチェンバーの楽園であり、そこだけが世界である。

石破ですら戦争の原因は統帥権干犯論により統帥権が政治から独立したことだということであくまで民主主義や二大政党制のもとで戦争が始まったと認めているのに、未だに天皇主権だから戦争になったのであり、国民主権・民主主義なら戦争にならないという神話を信じ続けてますからね

 「戦後」パラダイムだかスキームだか、あの安倍ちゃんが好んで使っていた語彙と枠組みにしても、その内実についてほぐしてほどいて言語化して、世間一般国民有権者その他おおぜいの間の最大公約数の了解事項にまでとてもできないままだったことを、いまこういう状況だからこそ、「失われた30年」――これもまた内実を言語化されきらないままほぼミーム化している残念かつ気の毒なもの言い――の射程距離と焦点深度とで「直近手もと足もとからの地続きの現代史」の過程としておさえなおそうとする意志の必要。

 「現代民俗学」(名前は何でもいい)ってのが未だなお、それなりに信頼されるに値する人文社会系の足場として、たとえ微かにでも可能性があり得るのだとしたら、そのあたりの意志をゆるぎない初志としてまず、思考思索の橋頭堡として設営することからでしかないんだろうな、と。

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