産業化された人間関係・雑感


・映画『ソーシャルネットワーク』を見た70代の老人が「この映画に出てくるのは人間と人間の関係ではない、“組織の中の役割”で決まっていく関係だ、非常にindustrialized(工業化、産業化)された関係のように見える」と感想を書いていて、見た時は新鮮に感じた。私から見ると『ソーシャルネットワーク』に出てくるのは「人間関係あるある」で、とくに工業化された無機質な関係には見えなかった。ポジションと関係ない、工業化されていない人間関係なんて存在するのかな?と。



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ダニエル・キイスは1980年代のインタビューでフィクションの『アルジャーノンに花束を』とノンフィクションの『24人のビリー・ミリガン』について、「自分は、複雑に工業化された社会に対して人の心が起こす“反応”に興味がある」と説明している。生活が工業化されていくと、児童虐待が多くなる。児童は多重人格でその虐待にリアクトする。神経症、心の病、多重人格が防衛機制として機能するのだ。


・80年代のダニエル・キイス作品への反応を見ると「よく書けているが、人の心の描き方が機械的なのではないか」という評がある。そんな、ネジを巻いたら動きました、抜いたらとまりましたという動きをするかな?「人間らしく」ない。


2025年の私たちはダニエル・キイスの人間描写に何ら違和感を感じない。


マッチングアプリで出会い、ソーシャルネットワーク内で激怒し、感動し、癒やされ、年々ますますindustrializedされていく。


・数年前に同じ村の老人が「駅の近くで看板を見たが『メンタルクリニック』とは何か。大学病院にあるものわすれ外来の独立なのか」と不思議がっていた。例えば、会社に行けなくなったときに話を聞いてくれる専門家がいるのだと説明すると「それは友達とはちゃうの」とますます不思議がっていた。話を聞き、慰めたり勇気づけたりするなら、それは友達なんとちゃうの。


・でも、ここまで書いといてあれだけど、意地でも「無機質でさみしい社会になりましたね」とは思いたくないんだよね。


 私はパク・チャヌク監督の「時計が愛の象徴になれるならスマホもなれるだろ」って考え方が好きだ。父親から譲られた時計を肌身離さずにいるのが愛の描写になるのなら、譲られたスマホを肌身離さずにいるのも「なんか寂しい。ぬくもりがない」にはならないはずだ。

 「産業化」(「工業化」でも可、かと)とくくってしまっていいのかどうか、は措いとくとして、このようなある種の同時代的状況、つまりは〈いま・ここ〉からの疎外感というのは古くて新しい感覚でもある部分がおそらく常にあって、それはどのようなものであれ「自分」といった自意識を、特にそのように仕向けられずともただ生きているだけである程度輪郭確かに持ってしまうような情報環境に人が生まれ育つようになってこのかた、程度の違いはあれど、それなりに感じてしまうような感覚でもあような。

 さらにもっともらしく大風呂敷を広げるなら、それを「近代」wとまで臆面なく言えるようなら、ちょっとしたインテリ知識人しぐさとしても通用していたかもしれない程度に、少し前までならば。

 「人間」が「機械」と対置されるようになることで、うっかり際立ってしまう何ものか。「ぬくもり」と「冷たさ」系の対比などとも考えなしに重ね合わせられながら。


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 ……あ、そういう方向で焦点深度無限大方向にしちまうなら、アトムもドラえもんもクソデカ同じハコ、ってことにもなって不思議ないのかな。

 このあたりの問いならば、それこそかつてのリースマンだのベルだのフロムだの何だのといった、ひところよく読まれていたような翻訳ものの「文明批評」(この便利な言い方もされなくなって久しい)系と思われていた翻訳「教養」本などに散りばめられていた「脱産業化」やら「知識社会」やら何やらの能書きをあらためてめくりなおしてみれば、ああそうか、こういう具合に〈いま・ここ〉同時代に「生きる」ということを自前で言語化できないままジタバタしていたんだなぁ、われらポンニチ同胞の日本語を母語とする環境においては、という程度の感懐は普通に抱けるように思う。当時読まれていた内実がどのようなものだったかはともかく、少なくとも現在、ここで示されているような意識を持ってしまった若い衆世代の目と感覚で読み直してみるのなら。