男性と自己受容・メモ

 風俗で働いて気づいたのは、多くの男性が内面の脆さや満たされなさを抱えていること。そして、自分ひとりで自己受容に至るのが難しい人が多いということだった。


 背景には、幼少期から「ヒーロー像」を求められ、比較や競争、結果、役割の中に放り込まれる環境がある。その中で感情に気づいたり、自分を受け入れることは後回しになり、自己受容のハードルは高くなってしまう。


 だからこそ、男性にとって女性の存在は大きい。とくに、自己受容を深めた女性が「ただ在る」ことで、男性の自己受容も自然に促されていく。


 ただし、それは母親のように献身的に世話をすることではない。ここで言う自己受容とは、感情や弱さを否定せず、そのまま理解しようとする姿勢、そして「自分自身と調和している在り方」を指す。


 男性が自己受容を深めると、誇示や支配の欲望からではなく、自己信頼や調和、創造性を基盤に動き出す。その強さは、本当に力強く、本当に優しい。そうなると彼らは、もはや支配や服従の構造には留まれなくなるのだと感じる。

 この「自己受容」というのは、「前向きにあきらめる」「おりる」ができる、と言うことでもあるように思う。

 ただ、その次にある「母親のように」「献身的な世話」というのが、残念ながらすでにバイアスがかかった見方になっているようにも感じる。既存のステレオタイプな「母性」イメージに引きずられている、という意味において。

 「献身的な世話」というのは、かいがいしく「身の回り」のことをしてやることだけでもなく、少し焦点を拡大すれば、たとえば「父性」のステレオタイプな理解にあるような「家族や共同体へのわが身を省みない献身」といったものも、含まれてこなくもないわけで、そういう意味では男女不問、dedicate という部分においてはある普遍性のあるものかもしれないではないか。あるいは、それこそ「神」なり何なり、何らか超越的な存在に対する「献身」なども含めればなおのこと。



 敢えて自分ごととして言うなら、そのように「世話をされる」「身の回りの面倒を見てもらう」ということを素直に自然に受け入れることができないまま、歳を喰ってきてしまったところがある。

 そのように「世話をする」ことを半ば習い性のように実装してきたおんなさん的には、何とも世話のし甲斐がない、張り合いのないオトコ、ということになるらしい。

 たとえば、つきあったおんなさんにメシを作ってもらう、ねぎらいと感謝の意味を込めてでも「おいしい」と素直に言うことからして難しい。何か自分のためにしてくれる、というその行為に対する「あ、これはいけないことだ」「こういう状況に甘んじてしまうのは自分にとってダメなことだ」と脊髄反射してしまうように刷り込まれてしまったのは、自分が兄弟姉妹のいないいわゆるひとりっ子で、そのことになぜかかなりコンプレックスというか、「ああ、自分は一人前じゃないんだ」的な引け目を早い時期から感じてしまっていたことも、もしかしたら大きいのかもしれない。

 逆に、そのように「世話をする」「面倒をみる」ことには違和感がない。敢えてそうするというわけでもないけれども、なりゆきでそのような関係になり、立場としてまわってくるなら、「しゃあないわな」的な感覚と共にそうすることにまず抵抗はない。

 かつての本邦の「おとな」たち、つまりはかつてのオトコたちということでもあるが、それらの日常の行状を期せずして記していることになる書きもの、たとえば作家その他の嫁さんや子どもといった家族や親しかった人がたが、それらオトコたちの日常を思い出話的につづったものなどを読んでいると、そのかつての本邦の「おとな」であるオトコたちというのは、何ともまぁ、「世話をされる」「身の回りの面倒を見てもらう」ことに対して、あっけらかんと受容できていたのだなぁ、と感嘆してしまう。

 それは「おとな」であること、成人して社会的な存在に否応なしになってしまったオトコである自分である以上、そのように生活の中で半径身の丈の身の回りの些事について「世話をされる」ことは、人により状況により濃淡はあれど、概ねのところ半ば空気のように「そういうもの」化していた、ということではあるらしい。

 同時に、その裏返しとして、その「世話をする」側の存在としてのおんなさんに対して、その「世話をする」内実について敢えてくちばしを入れたりはしない、そこは「異なる世間」として触れないようにする、ということも含まれていたらしいのだが、そのへんの機微や匙加減も含めて、自分などにはもう小さい頃から歴史的な過去としての距離感があったように思う、良くも悪くも。

 それは、おそらくいわゆる「遊び」――のむ・うつ・かう、のその主に「のむ」と「かう」の領分についての立ち居振る舞いについて、さまざまな屈託があらかじめ身の裡に実装されてしまっていて、素直に「そういうもの」として引き受けることのできない不自由というか、無駄に「めんどくさい」ところを抱え込みながらこの歳まで生きてきたらしいことにもつながっているらしい。

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 一方、そのような現状を「喰う」なりわいというのもまた、いくらでも眼前にいるのも同時代〈いま・ここ〉なわけで。

 「独身アラサー女」の設定で稼ぐ3児のママが奢りにきた時に「マーケを学んだら、まずはターゲット設定が大切と学んだ」「子持ちの既婚者は、忙しいし幸せだからSNSに滞在しない」「なので、ひまで孤独感がつよくSNSが生活必需品である独身アラサー女をターゲットにしたら成功した」と言ってて、それでどう稼いでるの、と聞いていったら、「結婚と子どもが居なくても幸せ、といった内容を言い方を変えて唱え続けるだけでバズるので、その導線上に、占いとかスピ系の商品を並べていくだけですね」と話してて、インターネットの罠猟だった。ジビエ料理屋でもひらくのかとおもった。