2009-01-01から1年間の記事一覧
マンガが知的なことばにとらえられるようになり始めた頃=1960年代後半~1970年代 その頃、マンガを「評論」「批評」の対象としてとらえるようになっていた側の世代差 マンガ体験における「世代差」を意識すること。 団塊の世代=当時の「若者」=マンガを小…
永島の〈リアル〉、と、つげの〈リアル〉の対比 あるいは、『COM』と『ガロ』の違い。それらの異なる〈リアル〉を規定していたもの 永島=『COM』=「手塚学校の優等生」(桜井昌夫)=「青春」の通過点、的な評価に つげ=『ガロ』=「評論」「批評」を引き出…
「私小説」としてのマンガの読まれ方。どうしてそうなっていったのか? 当時、新たに勃興していた青年層のマンガ読者たちが求めたもの。そこに現れた「内面性」とは? 「マンガの太宰治」という評価の意味。その功罪、光と影の両面を考える。*1 永島慎二のこ…
片岡義男という書き手は、あらかじめ「日本」から遠ざけられた存在でした。デタッチメントの感覚。80年代のあの爛熟した「豊かさ」の極相において、それらを突き放したところでじっと観察できる〈リアル〉を持っていた。だから、カドカワ全盛時のヒットメー…
*1 ただ、おっしゃるような、「閉ざした側の理屈、正義を自明とする限り、それを打ち破ろうとする少数派は危険な「カルト」に、あるいは軽侮すべき「電波系」に見える」という部分、あたし的にはちと違和感があります。 たとえば、申し訳ないですが、大塚の…
*1 宮本常一、というのは、近年脚光を浴びている名前である。 特に、民俗学とその周辺ではほとんど唯一と言っていいほど、有名な固有名詞になっている。それは、かつての柳田國男ブームに見られたような民俗学とその周辺への熱い視線がとっくになくなってい…
団塊の世代の、特にプチインテリ層 (関川夏央ならば「知的大衆」と呼ぶかも知れません) 特有の世界観や価値観、というのは、そろそろまともに、言葉本来の意味での「歴史」的な文脈での考察対象にしておいた方がいいと思われます。 単なる「サヨク」だの「リ…
マンガについてのガクモン、ということですが、マンガ「を」ガクモンするのか、マンガ「で」ガクモンするのか、というあたりも、実は両方あります。 文化としてマンガを考える、それは広義の文化学でしょう。表象文化論とか、カルチュラル・スタディーズとか…
児童文学というのが気に入らない。絵本だ童話だ読み聞かせだ、と昼日中から図書館だの児童館だの男女なんたら参画センターだの役所まわりのたまり場で、そこが当然の居場所のごとくふるまっている一群の人がた。そういう手合いがどうしてのうのうと世渡りで…