小説と随筆、の違い (とは)・雑感

 最近、あらためてわからなくなっているのが、小説と随筆の違い、というやつ。

 散文で書かれた(もちろん日本語で、という前提だが)文章であるなら、とりあえずどんなものであれ「読む」ことはできるわけで、その文章が小説なのか随筆なのか、エッセイなのかコラムなのか、はたまたルポなのか何なのか、といったことをあらかじめ意識して、その「読む」を調整するようなことは、まず普通はしていない。日本語で書かれた文字列ならばとりあえず「読む」ことが、半ば自動的に行われるようになっている。

 というか、それは何も文章に限ったことでもなく、それこそ道端の看板や標識、貼り紙から注意書きの類などまで、とにかく文字で書かれているならば、視野に入って合焦した瞬間にその「読む」は発動されている。我慢しようとしてもできないくらいにそれは、ほんとに日々の習い性、生身にあらかじめインストールされてしまっている挙動になっている。

 かつて椎名誠の「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」だったか、眼に入るものすべて読まずにはいられない症状の友人(「活字中毒者」と称していたが)をお題にした小説(だったのかな、あれも)があったけれども、別にあれはあのモデルになった目黒考二(北上二郎だ)が特別異常というわけではなく、また日本人に限ったことでもおそらくなく、こと言葉を介して第二の現実(クリシン流に言えば「パンツ」か)を穿いて/穿かされてしまったわれら人類一般についてのことなのだろう。

 でも、日本語で書かれた文字列、ある程度まとまりがあり、文脈らしきものがあるならば散文と言っていいだろうが、とりあえずそういう散文表現に限ってみても、さてそれが「小説」か否か、といった形式的な分類は普通、あらかじめ気にすることは、まずない。眼に入れば「読む」し、文章であれば行を追って読み続ける。小説だから、随筆だから、といった分類によってその「読む」自体が規定されたり、何らかの調整が加えられることは、そうとわざわざ意識する/しなければならないような特殊な場合を除いて、まあないと言っていいだろう。

 全ては「読みもの」であるし、本来そうなのだ。なのに、ならばなぜ「小説」という分類はあるのか。あるいは、小説「以外」のものの代表格のようにして「随筆」があるのか。そのヴァリエーションとして「エッセイ」「コラム」なども含めて、でもそれらも「小説」ありきで生まれてきたジャンルというか整理箱なのであって、たとえば音楽ならば「音楽」に対しての「軽音楽」、芝居でも「軽演劇」などというように「軽」をつけて〈それ以外〉であることを示してきた、そういう何らかの権威や箔付けを前提にした分類と同じようなたてつけではあるらしい。「正しい」「まっとうな」散文や音楽や芝居というのがあらかじめ「そういうもの」としてあって、その上で初めて成り立つような〈それ以外〉。まあ、「随筆」というのもそういう意味での〈それ以外〉代表、ではあったのだろう。

 そういう意味でなら、いわゆる学者・研究者世間で言われる「論文」というやつと〈それ以外〉、普通はまあ「研究ノート」や「資料紹介」といったたてつけになるらしいのだが、これらもまた同じように、実はいまひとつよくわからない分類ではある。章立てが明確で、脚注その他もお約束に沿ってつけられていて、といった形式的なものさしは、そりゃまああるとしても、でもその中身についての基準というのは、実はそう確かなものではないと思う。いわゆる「科学」という神が厳然として鎮座し、かつそのご威光の下に統治されている理科系はともかく、少なくとも本邦の人文社会系について言えば。

 狭義の作家、文学者の類の書いたもののうち、「小説」とされるものと、〈それ以外〉の「随筆」などとの間の違いというのは、人により、また時代にもよる部分があるとはいえ、並べて読むとそうそうはっきりした区別がつけられるものでもない場合が多い。小説だから虚構だ、フィクションだ、つくりものだ、随筆はそうじゃない身辺雑事や日々の雑感を漠然と書き綴っただけのものだ、といった基準で仕切ろうとする向きもあるのは知っているし、それはそれかもしれないが、でも、だったらあの私小説と呼ばれてきた散文の類は、どこまでが「小説」でどこまでが〈それ以外〉の「随筆」なのか、というと、正直、自分のように「文学」界隈への信心が乏しいまま歳を重ねてきたばちあたりには、腑に落ちないままなのだ。

 「随筆」はもちろんのこと、比較的新しい響きがある時期まではあって、特に女性の書き手などには好んで使われる傾向にあった「コラム」「エッセイ」の類にしても、最近はあまりわざわざ言わなくなったような印象もある。「評論」「批評」なども同じかもしれない。散文表現の文章として書かれたものに対して、いちいちこれは小説、これは随筆、これはコラムでこっちのは評論、といった風に仕切ろうとする意識をあらかじめ持つ、そんなめんどくさい必要すら感じない程度に、文字/活字による散文表現はいわゆる紙媒体を越えたところに、これまでもあったような路上の日常空間においてというだけでもなく、それこそスマホの画面やパソコンのモニタなどまで含めて、何でもありに存在するようになった。それらの多くはすでに一定の文脈を宿した文章ではなくなっているかもしれないし、断片的でバラバラの、短い分節や刹那的な短文がたまたまそこに凝集してみているだけ、といった代物かもしれないけれども、でもそれにしても、散文の眷属であることはまず間違いないし、またそれらの眷属であるまま、もしかしたらうっかりと韻文的な、何らかのフシや調子、リズムといった話し言葉の側への開かれ方をもはらみ始めているのかもしれない、と思ったりもする。