いわゆる「文学」と呼びならわされてきている多様な表現の形式――とりあえず話し言葉も含めての言葉を介してのものに限っておくけれども、それが「個人」の「創作」としてあたりまえに認識され定義されるようになってゆく過程の外側、〈それ以外〉の部分をどのように包摂して考えてゆけるのか、という問い。いまさらながらに、でもやはり避けて通っていてはよろしくないだろうささやかながらも難儀な問いのひとつとして。
「個人」が晶出されてこないことには、そのような意味での「作者」も存在しないし、つまりは「文学」の「作者」の誕生というお題になってくるのだろうが、しかしそれではあまりに味気ないポスモ系丸出しの顛末にしかならない感じがして、そこに早上がりすることもペンディングにしておきたいわけで。*1
文化人類学の本邦人文系の世間における煮崩れ凋落ぶりもまた甚だしいみたいで、それはそれでまた別途、考察しなければならないことでもあるのだが、*2 かつてまだ正気を保てていた頃の本邦の文化人類学に教えてもらっていたたてつけにおいては、文字以前、口承による伝承とそれを支える共同性しか現実の〈リアル〉が宿る余地のなかった、そんな社会においてはそのような「作者としての個人」はあり得なかっただろう、ということになる。口承による伝承と同時代の〈いま・ここ〉における上演とがそのような言語表現のほとんどだった状況では、それはある程度の揺れや振幅はあれど、基本的に定型に収斂してゆくような「おはなし」の形式にはなっていたと考えられている。ならば、そのような「おはなし」の受け取られ方がどのようなものだったのか、川田順造の仕事などをあらためてそのような視点から読み直してみるしか当面、自分にとっての糸口もなさげなのだが、それはまた別途の作業としてピン留めしておくとして、少なくともそのような社会、そのような共同性を共有する世間に生きる個体としての個々の個人のものの感じ方、感情の動かされ方というのも、日常からすでに相当に社会と共同性の側に開かれたものになっていただろう、ということはこの時点でも言えることのはず。
個と群れ、個人と社会との関係性が、今のわれわれが普通に考えるよりもはるかに混沌としているというか、個人の感じることがある程度そのまま社会の感じることの水準へ通底している、そんな印象なのだ。
で、いま普通に「文学」と呼びならわされているような表現のありようを前提として、そこから解釈枠をあててゆく限り、そのような口承による伝承とそれを支える共同性しか現実の〈リアル〉の宿る余地のなかったような社会における「おはなし」のありようは、その受け取られ方も含めて、やはりどうしても〈それ以外〉の領域、自明の「文学」というたてつけからあたりまえに疎外される「残余」のものとしてしかうけとられないだろう。つまり、いまある自明の「文学」という枠組みの側からものを考えようとする限り、文字以前、口承と伝承がドミナントな情報環境にある社会の「おはなし」のまるごとの〈リアル〉はうまくこちら側の認識の銀幕に合焦してくれないように思う。
今ある「文学」においても、そりゃ「おはなし」(「物語」でも「ナラティヴ」でもいいが)は認識の対象のひとつになってはいるが、その「おはなし」という認識枠自体が今ある「文学」の認識枠と紐付けられている限り、そしてそれもまた自明の約束ごとになっている限り、「おはなし」もまたその残余部分について認識できないままになる。
例によってのしちめんどくさいあれこれ千鳥足の考察沙汰だが、要はこのあたりの問い、そういう風に「そういうもの」としてものを見たり考えたりしているあんたって何者なん? ということであり、そんなあんたが「そういうもの」として振り回して使い回している認識枠の成り立ちってのも、立ち止まって留保してみてもバチはあたらないんでないん? ということなんだろう、これまた例によっての方法意識と主体の関係の問題ということになるんだが。
どのようなものであれ、ひとまず「おはなし」という、少なくとも〈いま・ここ〉からそのような語彙で捕捉しようとして構わないような何ものかを仮に認識しようとするための形式、に依拠することによって、その表現の受け取る側にとって何らかの〈リアル〉が――花田清輝流に言うならアクチュアリティが、うっかりと宿り得る、そんなからくりが今のわれわれの「そういうもの」としての理解と比べて、まだ見えてないほどの大きな違い、想像を越える目新しい現実を引き出してくれるかもしれないこと。