「1958年10月4日生まれ21歳┃江戸っ子┃火力・原発の即停止┃侵略費は0にして安全保障は中韓と共に┃玉城知事、山本太郎、福島瑞穂、蓮舫、大椿ゆうこなどを支持┃いちよう教授やってます┃フェミニスト┃11月に山本太郎さんの演説を聞いて衝撃┃マイナンバーカ・辺野古・原発火力反対┃女性の輝く社会へ 山本太郎を総理大臣に」
たとえばこういう「ネタ垢」(だとして)も、少し前までならば単に「釣り」であり、それによって「荒れる」ことになり、注目を集めること自体も何らかの悦びでもあったにせよ、それ以上のことではないままでいられたのが、それらを換金できる仕組みができたことによって、意味が大きく変わった。
「炎上商法」や「ブランディング」といった、目新しげなもの言いによって、「換金」という価値の変換の本質について見えなくする作用。
「換金」(的な価値の変換)に結びつかない、少なくとも第一義的に前景化されることのない状況だからこそ、「アングラ」「闇」的な語彙で語られていた〈リアル〉の裡に確実にあったある種の「自由」「解放」的な内実も、共有され得る余地があったこと。
ここで言う「換金」とは、単にカネに換えるということだけではない。何らかの別の価値を、あらかじめそのことを当て込んだ上で発言なり表現なりをするようになること。もっと言えば、「市場」的な文脈、身の丈をうっかりと越える空間に、自分の表現をあらかじめ放り込んでしまうこと。
「市場」的な空間をあらかじめ想定し当て込んで表現する。読者なり受け手なりを想定して表現する。このことの間に「違い」はあるのか否か。
読者なり受け手が「市場」的な空間にだけ存在する、という前提は常に正しいかどうか。
ものを造る/創る、それが使用され読まれ受け取られることを織り込みながら造る/創るのは、それ 自体ひとまずあたりまえかもしれない。ただ単に自分のための手なぐさみ、であってさえも、それが「なぐさめ」になる自分自身はその造る/創る過程に介在しているだろう。
ならば、あらかじめ「売る」ことを前提にして造る/創ることはどうか。注文によるものでないにせよ、ある程度「市場」的な空間における意味や価値、評価を想定し、織り込んだ上で造る/創ることには、結果として「換金」も含まれているにせよ、敢えて立ち止まって考えるならば、カネになるかならないかということ以前に、まずその「市場」的な空間を内面化してしまうことによる「違い」がまず、あるのではないか。
「換金」を前提とした「商品」、という系列でひとくくりに連続的に考える習い性がすでにどうやらあるらしい。「商品」とは「換金」を前提にしている、つまりカネに換える、そのような価値を付与する/されるものである、というような。そこから、カネに換えることは不純である、といったある種の倫理主義も同伴してくるし、同時に、カネに換えない/ならないから純粋である、ということも、また。
カネであり「換金」が問題なのではない。その手前、「市場」的空間、という部分で立ち止まってみることが必要なのだろう。
ああ、網野善彦がそのへんのことを、ものすごく勢い込んで語っていたのを思いだした。