「個人」×「市場」≒「自由」「自立」?

 日本では「個人」が確立されてない、「自由」が認められていない、的なもの言い、確かに少し前までは「そういうもの」として「正しい」属性あらわすわかりやすいもの言いだったけれども、でもそれももう効きが悪くなっとるのがようやく世間一般にもうすうすバレてきとる印象。

 一時期、なぜか急激に噴け上がったあの「自己責任」論にしても、要は「市場」的現実との連携や裏づけ無視した、いびつな「個人」を単体で増長させてきた戦後パラダイムw下での「市場」的現実の、これまたいびつな揺り戻し、だったんでないかと。

 だって、傍から見て「自由」な「個人」をこれでもかと謳歌されとるような人がた&界隈ばかりが、そういうもの言いブンブン振り回し、とてもそこまで「自由」も「個人」も実感できないこちとら世間一般その他おおぜいを高笑いしながらゆるふわキラキラ「正しさ」でタコ殴りしてくれるんだもの

 今こそ皆で山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」の再読を(kingさん的にどんな評価?

 山崎個人の評価はともかく、あの時代あの状況下でああいう認識をああいう文体で世間一般その他おおぜいに示すことができていた、ということ自体はひとまず高く評価できるかと。

 そのような「読書人」市場があった、ということと共に。

 おそらく風通しよく健康な意味での「文明論」的な脈絡での「(日本)文化論」の、戦後的な系譜の最良な成果が出現し得た状況というのが穏やかに成立できていた、最後の時期かもしれません。

 あの手の視点や文体その他、戦後の輸入ものの人文社会系の仕事を、本邦出版&読書人市場の「人文書」的な脈絡に投入してきた結果、書き手の側もまたそれらの情報環境からフィードバックしていった成果だったという側面はあるかと。

 いまだとそれこそ「あなたの感想ですよね」「エビデンスありますか?」的に冷笑&拒絶されるような仕事かもしれませんが、自分的にはそのようなある種のいまどき「優秀」系知性の前のめりに、予期せぬ硬直や不自由を招来してしまう隙が見えてしまうように感じてます。

 アメリカの価値体系は、個人の業績および個人に与えられる機会の均等に基づいていた。


 過去にも、種々の機能的グループに、団体としての資格が与えられ(たとえば、労働組合)、権利が与えられた(たとえば、ユニオンショップ)。しかし、こういったグループへの加入は任意だったから、個人は、資格を変えればその保護を失った。


 1954年の最高裁判決までは、黒人の弁護士は、「分離はするが平等に扱う」ということは差別であると主張していた。黒人とはカテゴリーではなく、個人として扱われ、それに基づいて平等をかち取る権利を有するからだと言っていた。これは逆説的な事実である。だが、差別撤廃の遅れとグループとしての一体性を求める、強い心理的な主張とによって、黒人の要求は性格が変わった。主張は、機会の均等でなく、結果の平等を求めるものとになった。これは、黒人に対する特別の数量割当、雇用における優遇、教育による補償措置などによって達成されるとするものだ。

 その山崎正和のもの言い、「柔らかい個人主義」という言い方のその「柔らかい」という形容詞が当時の気分、同時代的な空気にとっては結構「刺さる」もの言いだったという記憶がある。

 それはその「個人主義」という言い方は言わずもがな「柔らかいものではない」つまりそれなりに「堅く」て「真面目」なものである、という前提が自明にあった上での、いわば逆張り関節外し的な効果が明らかにあったんだと思う、広告コピー的な意味あいにおいても、あるいはそれ以上の何らか内実を伴った語彙としてでも。なんだろ、それこそ「キーワード」w的な?

 もちろん、そのさらに前提としては、あの漱石のこんなのに代表されるような、少なくとも学校の授業で「公民」だの「社会」だのの脈絡で刷り込まれてくる「個人主義」の戦後民主主義的言語空間漬けの「正しさ」言説の一環としての一連のもの言いがあらかじめ刷り込まれていてのこと、でもあったわけだけれども。

 「個人」に「なる」ことが「正しい」、という(敢えて言うなら、そして言葉本来の意味での)イデオロギー。そしてそれは「誰もが」一律に、あたりまえにそう「なる」べきなのであり、だからそれをめざしてあれこれ意識して努力さえしなければならない、的なものになっていった過程というのが、われらの「戦後」の言語空間にすでにあったということになる。

 それは、少なくとも戦前のあの大正教養主義的なたてつけ由来の、「エリート」「選良」としての「個人」という人格陶冶を求められていた地点から本格的に出発して通俗化していったたものだったとしても、「戦後」の言語空間や社会相においてはそれまで想定されていなかったような異なる要素、「個人」の内実を大きく変えてゆかざるを得なかった変数が介在していた。

 たとえば、そこに「おんな」という存在もあたりまえに浸透してきていたし、また、出自背景の階層差や地方差などにしても、戦前から戦後にかけての本邦の社会のあり方自体の激変期においては、そもそもの自意識のありようを否応なく規定してくる情報環境の変貌と共に、同じ「個人」という語彙でおさえようとしていたものの中身を、それまでと違う場所にうっかり舞い上げてしまうことにもなった複数の要因になっていたわけで。

 以前から自分がこだわってきているもの言いのひとつでもある、あの「みんな」というやつ、おそらくなのだが、その「みんな」との相関でこの「個人」というのも「戦後」の過程で想像以上にそれまでと違う内実をあれこれ詰め込まれ、背負わされるようになっていったように思う。「みんな」と「個人」――もっともらしく表記すれば、「組織」「集団」と「個人」という、ああ、これまた戦後の過程でそれなりの大文字の命題としてある時期、取り沙汰されていたものでもあるのだけれども。そしてそれは、いま振り返ってみてもなお、未だに抽出しておくべき大事な問いとしてあり得るのだとも思うのだけれども。

 ただ、惜しむらくは、その「組織」「集団」と「個人」というたてつけには、冒頭触れたような「市場」ないしは「市場的な現実」という媒介項をうまく設定する枝がつけられていなかったらしい。このへん個人的にも不思議なのだが、あれだけ「経済」が社会を、眼前の現実を「わかる」ための大事な枠組みとして取り沙汰され、また実際それに見合った「経済」をめぐるもの言いが汗牛充棟、翻訳ものも含めて世にあふれていたはずなのにも関わらず、その「組織」「集団」と「個人」――「みんな」と「個人」でもいいのだが、いずれそういう類の純正人文系w的な問いにおいては、その「経済」を背後にしたものであれ「市場」という補助線はうまく引かれることのないままだったように感じている。