日本語環境の「戦後」・雑感

 トラやんの「壁作るで(´・ω・`)」戦法はミもフタもないが「国家」という準拠枠をもう一度再起動させて「市場」に「近代」の規律を再度徹底させてゆくで、という意味では「失地回復」運動みたいなもんだわなあ。

 グローバル資本(だか何だか)が「国家」だの何だのの枠組みや壁を何でもありに乗り越えて無意味化してきとることと、難民含めた「無敵の人」≒「労働力」が同じく何でもありに流出してゆく現状とは同じことの裏表という認識をさて、どれだけまっとうに持てるかどうかがまず最初のハードルかもな。「宗教」もまた「壁」として使い回し得る、という「政治」もあり、なわけで。

 たとえば、かつての米軍が将兵大事にした、って言説も、何も戦後こちとらポンニチ的理解の「ヒューマニズム」じゃないとおも。パイロットひとりまともな兵隊ひとり育成するのにどれだけ手間ヒマゼニカネかかるのか、という具体的な換算の上に「人間」を見るわけで。一方こちとらポンニチは「精神」「根性」もそれら具体的なリソースと同列にうっかり考えちまうというワヤがまかり通るようになっとったらしいわけで。

 だから、「労働力」とかの理解も未だそのへんと変わっとらんから、それを宿す「人間」を具体的なリソース換算以上に「働きがい」「やりがい」的「精神」「根性」系抽象的ゆるふわリソースと同列に組み込んでごっちゃに「理解」してしまうわけで。生身の人間「すら」正しく具体的なリソースとして考えるからこそ大事にしたわけで、そういう意味じゃ旧軍「精神」主義的抽象的なリソース理解がワヤだったというのが本質ではないかいな、と。

 敗戦国として軍備レス国家を今後目指す(しかない)と当時としては本気で思うとった頃から70年たって、未だにことばやもの言いという現実認識の道具からしてそういう枠組みでしかもの見たり考えたりでけんまま、ってのがそもそも大間違いとしか言いようがないわな。

 日本語環境での学術研究、殊に人文社会系はそういう現実認識をあやまらせるようなことばやもの言いの生産にある時期以降、事情や言い訳はともかく、実際寄与してきたところが間違いなくあるわけで、そういう自省をとりあえずしようとする構えを見せんことには、信頼性の回復などでけるわきゃないわな。

 一次産業以来の社会的基盤の重要な部分だった「地域/地元」の共同性が良くも悪くもほぼ煮崩れた中で「道州制」なんざどう考えても理想能書き通りに機能するわけないわな。近年の「地方自治」のワヤ見てみたら一目瞭然だろうに。先の敗戦後、日本語環境での学術研究文学芸術ジャーナリズムその他「戦犯」探しに躍起になった過去があり、その是非はともかくその後その成り行きのまま「戦後」の現実認識枠組みが日本語を母語とする環境内で編成維持伝承wされていったわけで、その過程の自省と見直しは本気で必要なんだってばよ。

 いまどき若い衆世代、10代20代は言わずもがな勉強と教養がこれまで以上に生存戦略の要になってくると思うが、問題は日本語環境での「戦後」のまんま未だに安穏として生き延びとる大学とその界隈(ジャーナリズムや出版含め)話法文法のまんま勉強したところで意識高い鬱廃人にしかならんということでな。また、そういう環境の中で「無難」にやり過ごして世渡りしてきたような若い衆世代ばかりが教える側にまわっとったりするし、な。

 「流動性」と「速度」を加速増速してゆくことで「合理化」「効率化」を、という方向性とは別に、あるいはそれを安定的かつ継続的に稼動させてゆくための歯止めないしはスタビライザーとしての「地域」「郷土」「国家」(的なるもの)の再構築の必要。明治後半、日露戦後から大正期にかけての思想的変遷の中での当時の若い衆世代の右往左往、基本的になんも変わっとらんわけで、な。

 「富資が年々増加して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の減少がありますか、ご覧なさい、今日の生活の原則は一に掠奪です、個人は個人を掠奪している、国は国を掠奪している、刑法が言う所の窃盗、彼は児戯です。神の見給う窃盗とは即ち、今日の社会が尤も尊敬している法律と愛国心です。社会主義を唱えた青年の中には何よりも先ず対外的愛国心に対する反動から、愛国的熱狂の結果に対する反感から出発したものが少なくない。そして彼らは社会主義の何物であるか殆ど知るところがないのだが、単にそれを非戦論の如く国家主義と正面衝突を免れないような主張を有すると聞いただけで、単にそれだけでも縷々社会主義へ誘惑されて行ったのである。されば彼らが本来戦争否定であるべき基督教からも殆ど同一の誘惑を感じて社会主義者になると同時に基督教徒になり得たのも怪しむに足りない。そして自己が殆ど社会主義者でもクリスチアンでもなかったことを自覚した人々は、その個人主義的自我主義的立脚地から全く出直し、根本的に先ず「自己の問題」を解決するために深い沈黙と静思の中へ入っていってしまったのである。」