candidな映像、隠し撮りなどとの関係

 写真と映像(最近は「動画」か)の違いは、いろんな領域であれこれ論じられてきたけれども、編集前提で素材として映像を撮る場合と、テレビの生放送のように現場の映像を撮ってそのまま放送する場合との違い、というのは案外見過ごされてきているというか、正面から強調されることは少なかったような。

 「レンズの目、こんな怖ろしいものはない。レンズは役者個人の人格をえぐるように見抜く。たとえば、耳で聞いている時は自分の焦点を合わせた音だけを無意識に選択しているが、マイクの録音には非情に容赦なく何もかもが聞かれているのと同じで、レンズには嘘も隠しもしない自分が撮られてしまう。」*1

 いわゆる新派の舞台人であり舞台での演技を磨いてきた役者であるがゆえに、映画の場に比較的早くから仕事を求めていた御仁だけに、このように素朴に「映像」として「撮られる」経験について自省してみせてくれている。眼前の観客席に向かって、そこから「見られる」ことを意識して所作や身ぶり、せりふの出し方など全てをその場の〈いま・ここ〉において、まさに「生」で上演してゆくことに収斂させていた意識のありようが、どこからどう「見られる」のか必ずしも定かではなく、またそれをうまく意識化もしにくい「レンズ」というブツに「撮られる」経験について、「非情に容赦なく」「嘘も隠しもしない自分」を見られてしまうという言い方になっていることも含めて、立ち止まって考えるといろいろな問いが含まれていることが見えてくる。

 他の場所では、映画とテレビの違いについても触れていて、基本的にカメラ1台がまわっていて、それを前提として概ねそのカメラの脇に控えている監督からの指示がある映画の撮影現場より、複数のカメラが同時に稼動するのがあたりまえなテレビは、どっちに向かって演じればいいのかさらにぼやけてわからなくなっている、といった意味のことを言っている。つまり、隠し撮り的な方向に「撮られる」経験が向かわざるを得なくなっていて、それはある意味、スナップ的な色合いが強くならざるを得ないということでもあるらしいのだ。

 テレビは「生放送」から始まっていて、その限りで「生」であることがあたりまえだった。その限りでは芝居、つまり演劇的な上演を前提とした表現の〈いま・ここ〉における上演と同じではあったのだが、ただ、その〈いま・ここ〉における一回性の上演であることを何か至上の価値として大事にするあれこれの配慮や、それらを前提にした約束ごとなどは、予算や人的な制約などからすげなく無視されざるを得ないような条件から始まらざるを得なかったのも、またテレビだったと言える。何より、スタジオの現場に観客は同席していない。「生」であり「ライブ」であることは確かでも、同じ場にいる観客との相互性も含めた〈いま・ここ〉があって初めて成り立つ上演ではない。

 ならばスタジオに観客を入れての上演はどうだ、いや、だったら劇場にテレビカメラを入れた方が早いじゃないか――「実況」であり「中継」であり、のちには「公開録画」などにも派生してゆく「生」であり「ライブ」である現場の〈いま・ここ〉を、そのままに「放送」できる、テレビという媒体の初発の飛び道具性というのはまさにそのへんにあったということも、昨今のメディア論の類からは案外忘れられているか、あるいは軽視されているフシがあるような。(あ、いや、確か橋本治はなにげにさらっとそのへん指摘してはいたと思うが、そのへんにひっかかってその後を展開した向きはどれくらいあったのか、寡聞にして不知である。)

 ということは、隠し撮り的な全方向からのスナップ的な視線、というのは、「レンズ」を介した映像が本質的に持つ窃視的な性格であると共に、撮った映像をフィルムに「記録」するのでなくそのまま「放送」することが可能になったテレビ的な映像メディアのありようからすれば、〈いま・ここ〉の「ありのまま」というたてつけそのものからして、演劇的な上演におけるそれとは全く別のものにしてゆく契機になっていたのかもしれない。

 何にせよ、だ。そういういわゆるスナップ的な、candidな映像というのは、このように写真のみならず動画においても適用できるようになってくる枠組みなわけで、隠し撮りや盗撮などはその文脈でも論じ得るのだろう。テレビの生放送などはある意味そういうcandidな映像を複数、同時におおっぴらに放送するわけで、その意味では公然の隠し撮り的なところもあったりするように思う。このへんさらに立ち止まって要検討なれど、それこそあのナンシー関の「視線」「視点」の問題、とかも関連してゆき得る話かも。あるいは、「ナマ」放送や演奏、「ライブ」の意味あいの、そのような情報環境とその裡にある視聴者や聴衆、観客などとの関係においての変遷、なども含まれ得るお題としても。

 あたりまえだが、文字表現の「書く」において、「ナマ」「ライブ」は、少なくともcandid的な意味あいにおいてはまずあり得ない。それは編集される前提での映像の撮影に近いかもだが、しかし「撮影」にあたる「書く」現場そのものからは、いわゆる「ナマ」「ライブ」の意味あいは基本的に剥奪されている。

 あれは誰がやらかしたことだったか、記憶がさだかではないが、仲間うちの楽器の使えるミュージシャンと共に「ライブ」で、観客を入れてその眼前のステージ上で原稿を書いてみせることを、まあ当人的には当然シャレで、半分以上冗談としてやっていたことがあったと思うが、「ライブ」としてのできばえがどんなものだったかは、まあ、言わぬが花だったはず。考えるまでもない、原稿であれ何であれ「書く」という行為はきわめて個的で自閉的でまわりを遮断した状況、少なくともそのような環境でなされるのが普通なわけで、そういう意味での「読む」――黙読としての「読む」ことと対応しているところがある。そりゃ行為の主体である本人的にはある意味「ライブ」であり「生」の「上演」にも地続きかもしれない内的昂奮や高揚感、常ならざるあやしげな想念や妄想の類がいくらでも泡立ち、沸き立っていたりもするのだろうが、でも、それもまたあくまでも個的なものであって、外からその様子を見たり眺めたりできないものだし、だからその状態に関わることもまたできない、その程度に実にひとりよがりないい気なものではあるのだからして。
 
 そのように考えてゆけば、「作家」の「書斎」とか「仕事部屋」の類が「展示」されたり、あるいは彼ら彼女らの「使っていた道具」が特別な意味と共に公開されたりするのも、ある意味ではそういう「書く」現場そのものの「ナマ」の意味あいをそれらで代替しているところがあるのかも。スナップ的な、candidなありようとしての「書く」の現場、それを「ナマ」「ライブ」的なたてつけの側にむりくりにでも紐付けておかねばなるものか、とまで感じられる「読者」の側の変態的な執着、どこか禍々しい「書く」に対する拘泥が感じられる程度には、なかなかに因果なものではある。

*1:柳永二郎の言。『木戸哀楽――新派九十年のあゆみ』から。