(ボクの大事な)「京都学派」という無意識

 このNOTES、あまりナマものというか、Twitter空間などで敏感にあたりさわりそうなお題は、そのまま触れて出しでなく、走り書き程度に備忘録として記したのち、少し「寝かせて」おいてから、あらためて自分の裡で咀嚼して整えるようにはしてきているのだけれども、最近、いや、たまには寝かせずある程度そのまま記して流しておいた方があとあと含めていいこともあるかも、とまた思い始めているところがあるので、書いておく。

 「近代の超克」についてのtweetが例によってTLを流れていった件。それは例によって哲学か思想史を専門とする御仁らしかったのだが、あれって京都学派のせいになっているのはなんでやねん、あの座談会でモロ京都学派って3人くらいしかおらんやろ、といった調子でのつぶやきだった。

 既存の「そういうもの」と化しているそのガクモン世間での常識のようなものを相対化してゆくのは結構だし、「近代の超克」についてのその問い自体もまあ、悪い視点ではないと思うが、ただ、そういう問いの立て方が前提にしているその御仁の主体のあり方、問いを立てる地盤となるべき部分についての自省なり留保なりが、申し訳ないが感じられないものだったあたりが、なんというか、その、いかにもいまどきのアカデミア世間の住人っぽい印象ではあった。以下、ざっと気になった点。

●  「京都学派」を擁護とまで言わずとも、少なくともそれにシンパシーを抱いている立ち位置であるらしいこと。(それはそれで、まあ、よしとしておく)


●  「近代の超克」についてのこれまでの評価を相対化するのはいいとして、それが本邦日本語を母語とする環境においてそこまで自明の大きな問いになってきている/いたこと自体の「歴史」については、あまり相対化の視線は投げられていないらしいこと。(視野が狭い、あるいはいまどきアカデミア世間の目線に縛られている)


● だから、「近代の超克」自体をどう「評価」するか、という枠組みにおいて「だけ」ものを考えることになっていて、その枠組みが自明に固定化されている分、悪い意味でのゲームのように、それこそオセロのごとく白と黒とを一見あざやかに引っ繰り返すこと自体が目的化しているように感じられること。(ここらへんがおそらく、こちとらの違和感の拠ってきたるところ、なんだろうな、と)

 というか、そもそもその「京都学派」という語彙が何か昨今、そういうアカデミア世間ではあらためて「再発見」wでもされつつあるのかな、という気配を濃厚に漂わせていてくれた分、ああ、もしかしたらこの御仁が使っているらしいその「京都学派」のいまどきな定義自体が、こちとらなどの老害化石人文系脳な辞書機能とはすでに異なった意味あいで使われているのかな、ということも感じてはいたのだが、それもまた、ひとまずどうでもいいっちゃいい。

 「近代の超克」が人文社会系文脈で、いわゆるガクモン世間に限らず世間一般の「読書人」的教養の間尺においてまでも、何やら大きな問題としてとりあげられるようになっていった経緯、それこそが〈いま・ここ〉から、この21世紀は令和の御代における本邦人文系のありようを相対化してゆく際に、ひとつ大事な足場になり得ることは間違いない。その意味では、眼のつけどころは悪くないのだ、少なくともその一点においてだけならば。

 なのに、どうやらその御仁は、あの座談会には(ボクの考えるような)「京都学派」はわずか数人しか参加していなかったにも拘わらず、「近代の超克」が(ボクのいまいるアカデミア世間で)やたら悪者にされてきている、そのネガティヴな評価を(ボクの大事な)「京都学派」と結びつけて一緒くたに悪者にしているのは納得いかないもん、といったことを、何やら義憤っぽい感じでうっかり漏らしていた風、ではあったのだ。

 ここでは、「近代の超克」が「悪者」である、という前提はそのまま、微動だにしていない。「京都学派」(定義はともかく)がその「悪者」評価と一緒くたにされてきた、という見方は、そちらにシンパシーある立場からすればわからなくもないし、それに何やら義憤を感じるのも、これまたそれはそれ、ではある。ただ、だったら本当に問いにすべきなのは、その「悪者」評価の文脈において「京都学派」というのがどのように位置づけられ、またどうして一緒くたに見えるようにされてきたのか、というあたりの経緯来歴なのであり、それをつぶさに、それこそ歴史社会学的にでも何でも、自前で解きほぐしてゆく構えが必要になってくるはずだ。

 つまり、自省であり、自ら腹くくってやる留保、それが不可欠だろうということなのだが、そしてそれはこの御仁の場合は、「京都学派」と記し、口にするその際に(ボクの大事な)という前提がうっかり自明にくっついてきている、そこをまずどれだけ方法的に(まさに)自覚できるかどうか、というのが「はじめの一歩」になるのだろうと思うのだが、おそらく、これはもう例によって断言していいがこの御仁、そういう「方法的」意識は考えたことがないか、あるいは考えることについて表面的に理解はしても、それを自分ごととしてゆくことは、理解した瞬間に削除してゆく、まあ、そういう回路をもう埋め込まれちまっている。

 たかだかTwitterの片言隻句、140字の間尺での文字列からどうしてそこまで、という一見もっともらしく見える疑問の類も、例によって却下。だって、140字の間尺の文字列からで「さえ」、そういう主体の気配、隠そうとしても隠しようのない自意識のたたずまいは否応なく立ちのぼってしまうものだから。まして、何かを隠そうとするための手前、そもそもの認識すらしない/できないままの無意識かつ無自覚な棚あがりのありようは、蠱毒エリジウムないまどきアカデミア世間を「そういうもの」として受容し、その裡でめでたく培養されてきているような自意識にとっては、何をどう語ろうが表現しようが、無惨なまでに露わになってしまうものなのだし。
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 ああ、そう言えば、なのだが。こんなことをミもフタもなく、しかし一喝で喝破した御仁もおらしたっけか。

「活字文化以後のあたらしい視聴覚文化の創造になんらの関心をも抱かない「近代の超克」は、むろん「超克」でもなにでもない。それは単純な文化反動にすぎないのだ。」*2

 

 

 

 

 

 

*1:「京都学派」という語彙が最近また別の意味あい、余計な帯電の仕方をし始めているかもしれないこと、については、また別途、何か気づいたことがあればあらためて。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*2:誰の言、かは敢えて言わないでおく。