花田清輝の言うところの、アクチュアリティとリアリティの関係について。
アクチュアリティを、一応、偶然としてとらえ、現在の偶然を踏み台にして、過去の必然と未来の可能とを弁証法的に統一したものが、現実――つまりリアリティだ」というのが、花田の説。
あるいはまた、「リアリティへ飛躍するための結節点(クノーテン・プンクト、とドイツ語のルビを振っているあたりが花田のなんちゃって衒学趣味ではあるのだが、それはともかく)であるアクチュアリティ」とも言っていて、そのアクチュアリティをとらえる操作を「アクションの問題として――いわば、冒険の問題としてとりあげている」と続ける。さらに、「右の定義における偶然という言葉を、実存という言葉で置き換えたにしても、わたしにはいささかも異存はない」とも。
ということは、彼にとってのアクチュアリティとは「偶然」であり「実存」でもある、ということになり、それをとらえる手段としてのアクション≒「冒険」、つまり今風に言い換えるなら、取材でありフィールド・ワークであり、といったようなものになるらしい。
ところが、彼は次の段で、リアリティを、インチキでもある、と言い放つ。「わたしは冗談をいっているのではない。わたしのみるところでは、リアリティとは、インチキ以外のなにものでもないのだ。インチキをフィクションといいなおしてみるがいい」と。
「これまで不明のまま放置されてきた、ポール・ローザのいわゆるアクチュアリティを対象とするドキュメンタリー・フィルムと、リアリティを対象とするフィクション・フィルムとの関係が、わたしの定義によって、はじめてハッキリするではないか。」
そして、「いや、単にそればかりではない」と引き受けながらの、キメのひとこと。
「今日、われわれの周囲で進行しつつある、らくがき運動や生活綴り方運動と、民主主義文学運動との関係もまた、ヨリ厳密に規定することができるではないか。」
山口昌男が、少なくともジャーナリズムにおけるもの書きの資質や芸風といった面において、花田清輝を意識していたはずなことを、あらためてまた確信。と同時にまた、このへんのドキュメンタリーや記録映画にまつわるあれこれの学術研究アカデミア界隈の近年の、まあそれなりに汗牛充棟具合を遠望しつつ傍観してきた身からすると、個々の情報収集とその集積、分類などにおいて効率的であることは確かでも、それらをもとにした飛躍なり投企なり、それこそここで花田が言うような意味での「冒険」なり、といったモメントがどうも想定されていないようにしか見えないことも、また。論より証拠、それらのビブリオグラフィーなり書誌目録なり資料集なり、いずれいまどき風に行儀良さげに整えられている文書やリストの類には、この花田の示した見解などについては、まず反映されていないものらしいのだからして。
「「戦艦ポチョムキン」の軍医に扮したのは、カメラマンの助手で、牧師に扮したのは、果樹園の園丁であった。そして監督は、彼らの自然な動きや、さりげない表情を巧みにとらえ、いささかも演劇的でない、徹頭徹尾映画的な演技を創造しようと試みたのである。」
……考えたら(考えるまでもないのだろうが)、文字/活字表現にも、話し言葉のそれにも、映画/映像界隈の言うような意味での「モンタージュ」はあり得ないのではないか。あの「ミシンとこうもり傘」的な「出会い」は、同一の空間において初めてその効果を主張できるのであって、それは二次元的な平面においての出自来歴文脈を無視した断片の切り貼りに同じ効果を言い募ることと同じく、視覚を介した映像的な把握を必須としたもので、「読む」の本質とは異なるのではないか。