自分、昨今のあの「メイド」というキャラにほとんど何もグッとくるものを感じない程度には老害化石脳なのだが、お好きな向きのいまどき若い衆などにとってはあれ、かつての「女中」に喚起されていたような階級的差別意識などは、今日的に転生しているものなのだらうか。
「白樺派の多くにとっては、女中との肉体的な関係をもつことが、最初の深刻な人生問題であった」と、鶴見俊輔はうっかり喝破していたが、そしてまた、奥野健男はそれをさらに「ねえや」と、いま一歩踏み込み、微分したところで、家屋の造りなどもからめて立体的に論じようとしていたはずだが、さて、いまどきの「メイド」にはそのような人文系由来のたてつけに置いてみての、分析や考察沙汰というのは、果たして可能なものだらうか。
「性欲」一般が「性癖」などにも横転してガバガバな認識になってゆき、人の好き嫌いから趣味道楽の類に至るまで、いずれ人のココロのからんだ現れ一般についても、その背後に否応なく生身の身体、常にとりとめないものとしてしか現前しようもないものが介在しているということについて、ついうかうかと忘れてしまうようになっているように見える。
そう言えば、先の鶴見俊輔の、白樺派と女中ののっぴきならぬ関係についての評言をとりあげ、さらに身も蓋もなく開きにしてみせたのは、花田清輝だった。
「しかし、わたしは、むしろ、そこに、かれらの「最初の深刻な人生問題」ではなく、かれらの最初の美の発見をみたいとおもう。芸者にではなく、女中に美をみいだすような眼が、骨董にではなく、日常雑器に美をひいだすのは自然であって、一見、民主主義的なような気がするとはいえ、その美意識の在りかたは、本質的な意味においては、「八月十五夜の茶屋」の主人公のばあいといささかも変りはない。要するに、かれらは美というものを、玩弄物だと心得ているのである。芸者をいじるのも、女中をいじるのも、骨董をいじるのも、日常雑器をいじるのも同じことだ。美とは、かれらにとって、いじることによって、かれらの所有慾を満足させるなにものかである。」(「いじるということ」)
女中もねえやもいなくなった日常生活があたりまえになり、その中で育ったいまどき若い衆世代――いや、自分とて、基本的には同じなのだが、そういう感覚にとって、「メイド」というキャラなり表象なりは、かつての女中やねえやにあたりまえに抱き得たような「違い」の原初的体験がらみのココロの動き、本質的な意味での「性的」何ものかに根深くつながり得るような意識というのは、果たしてあり得るものなのだらうか。
「性的」だから、それは当然「暴力的」にも通底しているはずなのだが、まあ、そのへんはまた例によってゆるゆると。