翻訳フィルターへの疑念・メモ

 今回のKADOKAWA改めCHIKIKAWAの件で、出版中止それ自体とは別レイヤーで危惧してることがあるのでちょっとかいとく。*1


 どうも、学者等が都合よく言語を切り替えて日本向けの情報を遮断したり意味をずらしたりして英語に疎い人々が接する情報をコントロールしているのでは?って疑問である


 先日、おきさやかが英語で人様を非人道呼ばわりし言われた側が反発するや、おき及びおき派アカデミア界隈が「inhumanitiesは非・人文系」というおよそ単語の意味を無視した弁解と擁護を繰り広げたのは記憶に新しい。


 あれで切り抜けられると思っていたなら(手元のスマホで単語の意味くらい検索できるのに)どあほうだと思うが、あの様子を見れば、学者やインテリは下々の者らには英語など読めなかとうと思って意味を歪めて伝えているのではないかという疑念は当然生じる


 海外の議論や海外で発生した新しい概念を国内に紹介するのはなんのかんのいうてその分野に通じた学者や技術者で、彼らが書籍その他のメディアを用いて一般人に伝えるという構造はいまだ根強い。その流れの国内の上流の方に疑わしい奴がいるとなると、汚染の度合いが深刻では


 汚染もだけど、意図的に都合の悪いものを堰き止めていることも当然疑わなければならなくなる。


 出版不況で本自体減っているし翻訳の数はマジで減ってるので、日本国内の日本語での情報の寡占進んでたりしない?と心配になってくるわけで、そこに偏向した思想の持ち主が入り込んでたらやべーじゃねーの


 「じゃあ海外の文献や記事を英語とか仏語とかで読めばいいじゃん」というのは一つの答えだけども。
いやしかし江戸末期の志ある変態的翻訳パウア持ちが自国の言語で学び研究できる環境を整えてくれたおかげでうちの国は独立を維持できたし経済発展もしたし、独自に技術開発もできたわけで、


 他の植民地化された地域と見比べると、翻訳によって母国語を守りつつ広く一般の人々に知識を広めるということってめちゃくちゃ価値があるわけよ。そこを蔑ろにするのは国潰すことになるんじゃねーのみたいな。


 そもそも言語によって知識が分断されると、もう経済格差どころではなく民族としての分断になるよね。古代から「あいつらは人の言葉を話さねえ」と言って他民族を排除してきたのがニンゲンですからね。
翻訳って偉大だな。


 とまあそんなわけで、「英語で読めばいいじゃん」と母国内への母国語での知識の伝達を怠り、インテリだけがその知識を独占するのはやべーぜ…みたいなそんなアレで、💩としては冒頭の疑念は割と深刻な危機感と捉えていたりする。


 話がとっ散らかってすまんこ

 「翻訳」というのは、本邦の人文社会系に限っても、その〈知〉の形成過程において、これまで歴史的経緯として相当に重要な役割を担ってきていたはず。

 大学に文学部がまだ健在だった頃、英文学科、仏文学科、独文学科、露文学科……と、各種外国文学を看板に掲げた学科が、多少大きめの体裁整った総合大学っぽいところなら、私大でも並んでいるものだったし、またそれらの学科を介して単なる語学や文学だけでなく、それら海外の「異文化」についての興味関心を抱いてゆく、まあ、ざっくりそういう窓口にもなっていた。

 それらの学科の教員たちの多くは、それぞれ専門的な研究テーマがあるにせよ、半ば副業的に、半ば社会的使命として「翻訳」という仕事を手がけているものだったし、またそれらもひとまず研究者としての「業績」としてカウントされることもあたりまえだった。

 いわゆる人文系の「教養」というのも、そのような海外文学というたてつけを糸口に、あれこれ興味関心を広げてゆく中で、世間一般普通の読書好き、活字読みとして裾野を広げていったその他おおぜいの草莽インテリたちの拡がりによって支えられていたことは、これまでも折りに触れて語ってきたことだけれども、それらの拡がりが「市場」としてだけでなく、ある「批判力」を担保していることで、学術研究的な水準も一定に保たれていることがあったのに、というあたりの問題意識も含めての危機は、今世紀入るあたりからこっちの本邦の状況を鑑みるに、本当にシャレにならないレベルにまで堕ちてしまったのだと思う。

 webだと外国語の文書でも何でも、いまや翻訳エンジンをかませばそれなりに日本語に変換してくれる。なるほど、「便利」という意味では隔世の感、まさにSF的な夢の世界が眼前に実現されているとも言えるのだが、ただ、その変換した結果の訳文がどれだけ妥当なものか、というと、その信頼感というあたりで改めて立ち止まらざるを得なくなるのも確かだ。それは、AI的な人工知能が日常生活にあたりまえに侵入してくるようになりつつある昨今の情報環境ならではの不安ではあるのだが、かつてある時期まで「翻訳」された日本語の書籍なり文章なりをすんなりあたりまえに読み、さして疑いもなく享受できていた頃のような素朴で牧歌的な状況に人文系の「教養」も安穏としていられなくなっている、ということでもある。

 ここで言及されている「意図的に都合の悪いものを堰き止めていることも当然疑わなければならなくなる」というのは、実にそういういまどきの情報環境ならではうっかり可視化されてしまった「翻訳」に対する不安が、生身の存在を介して現実化しているかもしれない可能性と共にある。AI的翻訳エンジンと生身の存在――それも一応は「専門家」のはずの人がたの仕事に対する信頼感が、良く悪くも地続き同じハコになってしまっている、いや、単に信頼「感」というだけでなく、実際に生身の人がたの仕事からして翻訳エンジン的に信頼できない方向に身を寄せてしまっているかもしれない、ということでもあるのだ。

 たまたま、なのか必然として、なのかはともかく、こういう問題が、いわゆるフェミニズムジェンダー論界隈を足場に可視化されてしまったことも含めて、本邦の人文社会系の「教養」、〈知〉のあり方そのものが文明史的な過渡期にさしかかっていることをこのような形であらためて思い知らされる一件ではあった。(と、きれいごとっぽくまとめてておく、とりあえずのところは)

*1:KADOKAWAの出版中止の件、というのはこれ。 www.yomiuri.co.jp toyokeizai.net