言葉は通じるのに話は通じない

 会話してもムダ、話が通じない、考え方や感じ方がまるで違って、まさに「言葉は通じるのに話が通じない」局面というのがどうやらそこここで日常化しているらしい、本邦いまどきの世間のありかた、その根の深いところでの背景や理由の一端としての「おキモチ原理主義」駆動な蠱毒化に自閉すること。

 オープンレターズの旗振り界隈が「言論の萎縮」を真顔で懸念している件。彼ら的には本気でそう思っているんだろう。SNSの隆盛になった情報環境からの「圧」をやはりそれなりに感じているということではあるんだろうし、また、それに対抗するためどんどん蠱毒化が進行してゆくんだろう。

 安倍政権はメディア関係者に「監視されている」という感情を与え、不都合な報道が出ないようにしていた。だから支持率もさほど落ちなかった。日本は本当にまずいところに来ていた。


 同時期には国立大学でも学内の教員に心理的圧迫を与えるやり方が広まった。ヒラの教員はSNSの監視くらいで済むが、管理職クラスになると大変。たとえば部局の将来計画を提出するよう言われて教授会で審議して持っていくと、それが本部の意に沿わない場合延々と書き直させられる。従うまでそれが続く。


 投票で学部長に選ばれたが、なかなか学長から任命されないというのも聞いたことがある。そして管理職のそんな悩みはハラスメント相談室も扱えないので彼らは苦痛を抱え、最終的には言うことを聞かざるを得ないところまで追い込まれる。


 これらの陰鬱な事例を見ていて周りの研究者は従順に従うことを学習する。だが、それは研究の生産性を削ぐことにしかなってない。だって職場の心理的安全性を壊すわけだから。こんな人間の扱いがわかっていない改革を続けていて成果が出ると思う方がどうかしてる。

 言いたいことも言えなくなっている、と彼らが本気で感じているらしいのは、傍目からはどれだけ言行不一致、どういう現実認識になっているのか正気を疑うレベルでも、彼らの「お気持ち」的には真実なので、それを自ら立ち止まって「ほんとにそうだろうか」と自省、留保して検証はしないし、できない。

 「お気持ち」に自ら自閉しているようなもので、それを介して日々四六時中、自分自身の生身の認識もほぼ完全に規定されているのだから、そりゃ「対話」も「議論」も「話し合い」も、普通に言われるような意味で成り立つ道理はない。ある種の病い、精神症状だと傍目から見られてしまうのも致し方ない。

 こわいのは、あのオープンレターズとしてやったことも、そのような彼らの「お気持ち」駆動でほぼ自動的に、個々の理性的・論理的な判断とその上に立った合意といった過程を全く踏まずに「そういうもの」として、当然の「正義」として行なわれていたらしいこと。そのことを未だにわかっていないこと。

 「回線切って半年ROMれ」という、かつてのネット掲示板黎明期の名言があったけれども、いまやそれは24時間常時接続がモバイルで可能になり、SNSのようなほぼ「脊髄反射」で気分やノリのまま「情報発信」できるようになったいまどきの情報環境ではなおのこと、拳々服膺しなければならない至言だろう。

 「学術研究」でも「政治」でも「芸能界」でも同じこと、自分の承認欲求とそれを全面的に認められるべきものとしてくれた上で、なおそのまま野放しに通用させてくれる環境を最も抵抗なく泳いでゆけるツールとしての「おキモチ」。

 「当事者」などというのもあれ、要はそういう万能最終兵器としての「おキモチ」をさらにもっともらしく補強するための理屈に過ぎない。