「主体」と「おキモチ」

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 「主体」や「実存」こそが、本邦いまどき日本語環境における〈知〉の復興の重要なポイントである、というのは年来の持論でもあり今も基本その通りだと思うが、ならばさてどうやってそれを論点として共有させることができるか、というあたりになるといろいろと、な……(´-ω-`)

 たとえば、自分の発言や書いたことに対する「責任」の意識の宿り方からもうだいぶ前から、それこそポスモ・ニューアカの頃から違うものになってきとるわけで、「言っただけ」や「想定内」といった予め「主体」を免責しておくココロの機制が広範に実装されちまっとる状況からさて、何をどうやって、と。

 で、それはある意味では、それこそかつてのおっさん的浪漫主義と「主体」の関係を復権させてゆくこと、にもつながらざるを得んかったりするらしくて、な。それこそ、そのへんは言葉本来の意味での「フェミニズム」なんかの論点と実践の関係としても重要になってくるはず、ではあるんだが、な……

 オンナの人がた、が今様の「主体」になってゆく過程で、そういうかつてのおっさん的浪漫主義を一律全否定することを前提にしていった(倭フェミの工場出荷設定でもあるらし)以上、いまどきポリコレ憲法下の情報環境での「主体」「実存」を語る話法・文法からしてもう(ヾノ・∀・`)ムリムリでないかと。だからこそ、昨今ああいう「おキモチ原理主義」がいまどき情報環境での「主体」「実存」の表現になってきとるところ、ありそうな気はする。もはや「ワタシのキモチ」ってのにしか、そんなうすらぼんやりとした輪郭のあやしいものくらいにしか、「自分」の「実存」の依拠する足場を認められんようになっとるんだとおも。

 文字・活字と書籍を、少し前までのように蓄積的に「読む」(良し悪し別に)ことを前提にして構築されていった(らしい)「主体」なり「実存」とは違う情報環境とその内側での情報摂取過程に規定された、その意味では新しい「主体」「実存」ということになるのかもしれんが、ただ、だとしたらなおのこと、そういう新しい「主体」「実存」を想定した「社会」や「公」はさて、いったいどんなものになるのか、という、な。この場合、自分が「主体」なんかでなくても別に構わない、というあたりのことはとりあえず措いておくとしても。

 「主体」でなければ困る、自分の事情ではなく立場として、社会的な存在としてそういうものになることを必然的に要求されてしまっている人がたというのは、個人の意志とは別に常にあるはずなわけで。そういう人がたまでもが世間一般その他おおぜいと同じような「おキモチ」即「主体」であるような輪郭でしか個人でいられなくなっているのだしたら、そりゃ「自己責任」なんてもの言いにしても、その前提の「自己」のありようからして別ものになっているわけだし、当然そこにぶら下がっている「責任」なんてのも、また。

「おキモチ」主体に「責任」という概念はない。というか、そこに紐付いてゆかないし、ゆけない。自分以外の他人についても、同じように「おキモチ」としての他人でしかないから、ある意味地続きのまんま主客の仕分けも意識されない。「想い」だののもの言いがやたらと濫発、多様されるようになっているあたりの事情とも関わってくるはずであり。*2

 

*1:Twitterのメモ、に対する机上の備忘録として、例によって。

*2:「溶けたバター」という比喩(だか何だか)はずっと以前から使っている。あるいは「さめたタコヤキ」のような気色悪いくっつき具合、なども。