「権威」を背負った話法と「冷笑」の関係、および効用

 Twitterだと割とよく見かけるこういう「気づき」についてのつぶやき。そしてそれに対して何やらいたく感動したらしい御仁のリプがぶら下がって、その一連のつながり方自体もまた「可視化」wされてフラットに晒されてゆくのが、こういういまどきSNS空間の特質でもあるわけだが。*1

 ただ、基本的にこれ、どこかで教え諭すような、そういう対象をあらかじめ想定してのもの言いであることが見てとれる見てとれる。自分が「正解」「正しいこと」を知っていてそれを教えるという、ある種の「教師」や「賢人」的なスタンスからの発言。果たしてどの程度それを意識した上でのもの言いなのかどうかは別にしても。

 アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね。

 

 ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです。

 

 その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです。

 ここまではまあ、いい。こういう理解や認識というのはあるだろうし、この御仁がそういう風に思った、そのこと自体には「ああ、そうですね、なるほど」と軽く対応しておくしかないようなものだ。

 だが、次にそれがいきなりこうなる。

 だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです。「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです。


 我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです。

 話は一瞬にして「社会科学では」という大文字の水準に持ってゆかれて、どうやらそれを「正しいこと」として想定しているらしい、だからこその「教師」風味、上から教え諭すような角度がついてくる。何らかの「権威」なり「正しさ」なりを後ろに背負っていることがあからさまに透けて見えるもの言い。それは「上から目線」という反感を買いやすいと同時に、しかしだからこそ、すんなり腑に落ちたり「感動」したりできるような意識というのもまたいまどきTwitter世間には。いや、世の中自体がそもそもそういうものであるらしく。

 何らかの「権威」や「正しさ」をわかりやすく角度つけて伴っていてくれるもの言いの方がすんなり受け入れやすい、という習い性。半径身の丈の話しことばベースの空間とは違う、基本的に文字が自明に流通していて、それが話しことばの身の丈性を制圧しているような空間 (要はいまどきのわれわれの日常一般そうなっているわけだが) においては。生身の属人性がことばやもの言いと引き剥がせない空間でなくなったところで、フラットに平等に「記号」「情報」として流通していることばやもの言いの信頼性を検証してゆくことはそれ自体特殊な技術であり、もっと言うなら世間一般その他おおぜいレベルで日々の生存に必要なものでもなかったりするだろう。だとすれば、それらを整理して遠近つけて「自分」との距離を整え、現実を「理解」してゆくためには、何らかの「権威」「正しさ」めいたものさしは「便利」なものとして必須なツールにならざるを得ない。だから、「教師」的な上から目線前提のもの言いというのは、そのような意味でその他おおぜいを合理的に巻き込みながら、ある「理解」へと誘導して行く上では必然になってくるらしい。

 そういう「権威」「正しさ」を背負った話法に対するある種の素直さマジメさ素朴さ前提の従順さというのは、文字が自明に流通するようになって以降の情報環境における言語空間では量産型の設定になっている。個別具体に近い半径身の丈の話しことばと紐付けて理解しやすい水準から、抽象度の高い大文字のことばやもの言いの水準へ一気に持ってゆかれる体験は、それら従順さを実装したその他おおぜいにとってはある種の「感動」になりやすいだろうし、まただからこそそのような体験を「現実がわかる」「世の中の仕組みが見える」といった方向で価値づけることでそれら「権威」「正しさ」前提のもの言いに対する順応性を補強、再生産してゆくことにもなるだろう。
 
 だが、これらの「弱肉強食」についてのもの言いは、その背負った「権威」「正しさ」の一部に、それらのもの言いを繰り出す側がどこにいるのか、どのような立場立ち位置からことばを発しているのか、といった部分をあらかじめなかったことにしているかのようなありようが抜き難く含まれてもいる。その「権威」「正しさ」の射程圏内で自己完結的にやりとりされていたリプ群に対してつけられた「君はウサギ小屋に住んでいるウサギのつもりで弱肉強食を語っているつもりかもしれないけど、本当の君はライオンも住むサバンナに住むウサギだ」というリプは、そこらへんの except me なありようについての違和感を鋭く示したものだし、それは昨今揶揄的、否定的に論われるようになっているらしい、あの「冷笑」というもの言いに本質的にはらまれているはずの初発の批評性を体現もしている。

 おまえはどこにいて、どこからものを言っているのだ、という問いかけ。かつて、いわゆる学生運動が猖獗を極めていた頃にも繰り返されていたという「おまえの主体性はどこにあるのだ」的な罵倒の背後にあっただろう、except me なもの言いだけが飛び交うようになった空間そのものに対する違和感や不信感。もちろん、それらもまたみるみるうちに定型的なものにしてされてゆくしかなかったような不自由も含めて。そしてそれはその後、たとえばこのような「当事者性」「当事者意識」などへと横転してゆき、ネオリベ的な価値観世界観をそれこそ空気のようにあたりまえのものにしてゆくからくりに組み込まれて奉仕させられるようになっていることも、併せて共に正しく同時代の問いとして。*2
medium.com

 except me というのは〈知〉に必ず伴う属性なのかどうか。「棚に上がる」こと。自分だけは別だという前提に当然のようにあぐらをかいてしまうこと。「対象」とは別の「主体」として自分を設定してしまうこと。そうして、その「別」であることが本当に「対象」と関係のない、別の水準に存在していることに依っていると、厚かましくも無自覚に受け入れてしまうこと。半径身の丈を越えた現実に対する認識を自分のものにしてゆく過程のどこで、どのようにその現実と自分とが別の水準に存在していることになってしまうのだろう。たとえそれが、言葉を介して現実を認識するからくりの中に、おそらくはある程度普遍的に仕込まれているのかも知れないものだとしても。

*1:その御仁のプロフからその「感動」の背景や文脈などまで含めてうっかり意識が及んで/及ばされてしまう、そのへんも含めてのことは言うまでもなく。こんな具合に。「映画監督・テレビディレクター。映画『オトヲカル』(山形国際ドキュメンタリー映画祭スカパーIDEHA賞)『ゾンビデオ』CM『AKB48前田敦子とは何だったのか?』TV『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』などを演出。著書『日本昭和ラブホテル大全』など」このようにTwitter的空間における「情報」は否応なく属人性――たとえ生身の人格とは別の水準での「情報」ベースだとしても――を伴わざるを得ず、それらがさまざまな補助線として乱反射しながら解釈されてゆくのが常態になるらしい。このあたり、活字/文字ベースで仮構されてきた「議論」や「対話」の前提と異なる空間になっていることも含めて、要検討。

*2:リクルートという会社が象徴的に体現していたようなある種の風土(≒「文化」でもとりあえずいいが)は、ある意味マルチ商法などと似たような脈絡でその後の本邦企業の世間の空気を規定していったと思っている。ここでもまた、ことば自体としてはまっとうに見える、でもそれがある文脈においては決定的に空虚で、だからこそ超伝導的に無重力状態的に個々の身の丈の個別具体の間尺を超えていってしまう、という昨今の「ブラック」環境を基礎づけている言語空間(ある意味コピーライティング的、「記号」「情報」的合理性が仕切る空間) にも関わる何ものか、が関わってくるらしい。