「キモい」ということ・雑感

 「キモい」以下、昨今オンナさんがたの殺し文句的に汎用性が高くなっとる感のあるもの言い、そういうオトコを忌避する批評的もの言いという意味だったらそんなもの、いちいち実際に言葉にして明言せんまでも、個々のココロの裡じゃこれまでだってなんぼでもあったろう。それこそ「いけ好かない」とか「生理的にダメ」とか何とか、時代時勢に沿ってざっくり似たような同じハコ扱いされ得るもの言いはいくらでも。

 でも、それを同時にココロの裡で「そういうもの」として前向きにあきらめつつ制御しながら、日々の具体的な関係や個々のつきあいにおいての、ものの言い方や伝え方、あるいはそれに関する身の守り方などの手練手管ややり方を考えてゆく、というのが普通だったと思うんだが。

 もちろんそれは、オトコの側でも「ったくオンナってのは……」的な批評的もの言いが、これまたほんとに腐るほどなんぼでもあったわけで。ただ、それもまた先のオンナの世間におけるそれらもの言いと同様、基本的に同性間のそれこそホモソ的空間において初めておおっぴらに言葉にされ明言されるもので、ということは、それらの言語化可視化もまたその場で「そういうもの」という共通理解において何となく確認されるべきお約束によって、ある一定の方向で回収されるものだったはず。

 いずれにせよ、そういうハラの裡、ココロやキモチの内実が「ある」という理解がそのホモソ的空間を介して共有、確認され得ることと、それぞれの性差を抱えた生身が、それぞれの性差を背景にしながら日々の暮しの上で行使してゆくべき具体的な関係やつきあいの手練手管などとは、また別だったはずなんだ、と。

 「社会」と「家庭」みたいな、誰もが想定しがちでありがちな対社会理解の図式と軸だけでなく、なんというか、〈それ以外〉の図式もまた、世の中に対するものの見方の裡には当然、あり得るわけだし、何よりそういう複合的で重層的なモデルを想定できないままだと、そりゃあいつまでたっても「学問」も「教養」も、しょせん最も平板で無味乾燥な意味での畳水練、机上の空論でしかないままだろうに。

 たとえば、生活世界をさまざまな「世間」とそれに見合った言語空間の複合体のように考えることができるのなら、ここで触れているような性差(本来の意味な)を軸にした言語空間のそれぞれってのも、是非はともかくまさに「そういうもの」、自明の〈リアル〉を編制している仕組みの一環としてあったはずで、ということはまた当然、それによって守られたり維持されたりしていた何ものか、というのももあったと思うんだが、な。

 オトコの世間、というのは、単に水平で平板なオトコ/オンナという分類図式の上だけでなく、同時にまず「社会」そのものをたてまえとして概ね覆っているものでもあったわけで、その位相において〈それ以外〉としての〈おんな・こども〉という設定もまた、初めてこれまでと異なるいきいきした内実を歴史民俗的な地図の裡に啓いてゆくことができるのだと思う。

 とすれば、それに対応するべき、オンナの世間、というのもまた、まさに〈おんな・こども〉という〈それ以外〉の〈リアル〉と引き剥がすことのできないような、また別の水準で存在していたという、いずれにせよ少し前までの本邦の「日常」「生活」のたてつけというか成り立ちというか、大ぐくりに使われる場合の「世間」の「そういうもの」としての属性みたいな部分を〈いま・ここ〉から改めて言語化しとかにゃならんのだろう、とあらためて。

 まあ、こういうことをTwitterのTLに流れてくるお題を足場にしながら、例によってあれこれこちらの手もとで言葉にしてゆくことで、日々の何らかの稽古台にしているわけだけれども、ただもうほんまに、本来あるはずな意味での「社会学」(敢えて漢字表記にしとくが)ってのは、こういう問いの上に何らかわれら同胞のために役に立とうとしてもらわにゃあかんもの、だったと思うんだがな……いや、自分みたいな外道が賢しらに言うのもアレなのは言うまでもなく、ではあるんだが、それはそれとして。