消費と消費者の「自由」な「個人」化の過程・メモ

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 自分で自由にカネを使えること、日々喰って生き延びるためでない「楽しみ」のために使うこと――「消費」とひとくくりにされてきた内実に、それまでとは違う領域が明らかにあることが意識されるようになっていった経緯。

 その結果、ある意味「消費」は「自由」のシルシに、それらを謳歌できる「個人」の証明のようになっていったこと。

 そういう意味が前景化されていった「消費」にとっての「消費者」とは当然、そのような「自由」な「個人」のわかりやすいシルシとして自動的に正当化され、誰もが手軽に実装することのできる自意識ブースターになっていったらしいこと。

 そして、そのような「消費者」に、「家庭」の内側に守られながら存在していることになっていた〈おんな・こども〉が、その守られているということになっていた分、先廻りしてなっていったらしいこと。

 一方で、そのような「家庭」を守り支えるもの、ということになっていたオトコにとってのそのような「消費」の領分は、ある時期までは「小遣い」という囲い込まれ方で厳重に規定され、管理されるようになっていたこと。そしてまた、それで大方のオトコたちは「そういうもの」として受け入れていたらしいこと。

 それら新たに発見されていった「楽しみ」のためにカネを使うという意味での「消費」が、「娯楽」「慰安」から「趣味」へと、それもそれまでのような一部の例外的な営みとしてでなく大衆的通俗的に共有される営みへと、なしくずしにシフトしていったらしいこと。

 「労働」と「労働者」というもの言いの内実から、社会的な「生産」に携わるという属性が良くも悪くも後景化してゆき、そのために「労働」が「生産」と裏表不可分であるという認識までぼやけていったらしいこと。

 「消費」と「消費者」がそのように大きな存在になってゆき、それが「あるべき自由な個人」の雛型にまで肥大していった結果、社会的な文脈での「生産」や「消費」「労働」といったそれまでの術語の効きもそれまでと違ったあいまいなイメージのフリルをまとうようになっていったらしいこと。

 80年代的な意味で一気に注目されるようになった「女子大生」、あるいは「ギャル」wもまた、そのような意味での「自由」な「個人」の社会的イメージのある結晶体のようなところがあったらしいこと。

 当然、生身であるから性的存在でもあるわけだが、それらも含めて「消費」の位相にうっかり巻き込まれたから、「性的消費」wという複合的で一方的、かつ傲慢なもの言いもまた、それなりの「そういうこと」感を醸成するようになったらしいこと。

 日常生活のさまざまな局面、ライフステージにおける「家庭」の形成やそこに必然的に含まれていた(はず)の「出産」「子育て」などの否応なく個別具体でしかないような過程の類もひっくるめて、それら「自由な個人」としての「消費者」表象と化した「女子大生」的オンナのあり方からは意識されない/できないようにもなっていったらしいこと。

*1:断片的散発的な走り書きとして。懸案の大きなお題に関わる裾野の部分のバグ取りのためにも。