「みんな」と「ひとり」

 人はひとりでなく、タバに集団に組織になった時にこそ、いちばんひどいこと、苛酷な仕打ちができるようになるものらしい。ひとりひとりは「いい人」というのは、そういう意味で間違いではなく、おそらく真理なのだと思う。

 その仕打ちや行動言動が、自分ひとりが引き受けなければならないものではなくなる、自分のやったことや言ったことであっても、それは自分というひとりの行いではなく、自分もその中に包摂されている(と思っている)「みんな」のやったこと言ったことだ、という言い訳逃げ道が自動的に準備される。

 そういう「みんな」というのは、かつてのムラ的な共同性、それこそ「皆の衆」的な公共感などと本当に地続きのものなのだろうか。どこかで必ず不連続、断絶したところがあったりしないのだろうか。

 イエやムラ、いずれそういうもの言いでとらえようとされてきた「封建的」「因習的」「伝統的」な共同性の縛り方というのも、〈いま・ここ〉のわれわれが確かに察知している「みんな」の抑圧と、本当に全く同じもの、だったのだろうか。

 「自己責任」という近年やたら使い回されるようになったあのもの言いの「自己」にしても、本当に自分ひとりの自分という意味で使われているのだろうか。「みんな」から疎外されることへの過剰な畏れや不安が背後にべったりと貼りついたりしてはいないだろうか。

 御用聞きや出前持ちといった半径身の丈日常生活レベルの「便利」をもたらす「サービス」は、基本的に「私」の領分で宰領されるものだったわけで、それが「公」に取って変わられるように少なくとも「感じる」ようになっていった経緯というのはあるとおも。要検討なれど。

 それはおそらく「家庭内労働」と変換されるようになった「家事」一般についても適用可能なのだとおも。「私」の領分で宰領されるべき「サービス」とそれによってもたらされる「便利」「安定」によってようやく支えられる「日常」という領分。

 アマゾンやコンビニが「インフラ」だと言うor思ってしまう、というのは、それらの「サービス」の背後にどれだけ具体的なブツや仕組みが横たわって支えているのか、についての想像力自体が枯渇し始めていることのあらわれという面はあるとおも。

 「インフラ」(定義はともかく)と思ってしまう、ということが、そもそも「インフラ」をそのような対消費者感覚への「サービス」として「だけ」とらえるような感覚が、世間一般その他大勢的にはあたりまえになりつつあることでもあるような。

 「便利」(このもの言いの内実の変遷も要検討なのだが)をもたらしてくれる眼前のあらわれ、をそのまま「インフラ」として「なくてはならないもの」ととらえてしまうココロの習い性の浸透。

 そういう「サービス」(語感がちょっとアレだが)を「私」から「公」≒「市場」の領分に引きずりだしてしまうことで「対価」が発生するわけで、それはもうケケ中パソナ的獰猛の餌食になる下ごしらえ完了なわけで。

 「市場」≒「公」から隔てられた領分としての「私」を維持してゆくための条件というのを本質的に考える足場を、さて、日本語環境での「教養」は準備してきただろうか。