本邦ポスモの本性・雑感

 ソーカル以来、ポスモは自然科学を生半可にさわってドヤったバカ(大意)って理解になっとってそれはそれだが、ただ本邦ポスモの場合はそれらと少し違うありようしとったような気がする。

 ようわからんが、本邦の場合はそれまでのいわゆる「文学」が下味としてしっかり下ごしらえされとったところがあって、その上にその自然科学なり何なりをトッピングしていった成り立ちがあるような。

 この「文学」ってのは小説だの詩だの何だのっていう作品としての文学やそれらに関わる批評考察研究などを作法に従いやらかす領分ってだけでもなく、「思想」だの「評論」だのと呼ばれてきとったような領分などもゆるくひっくるめての広がりって感じなんだわな。

 そういう下ごしらえされとった中に、それこそマルキシズムだのキリスト教だの、ある種の科学だのもひっくるめてトッピングされてきとったところが正直、あったんだとおも、本邦維新このかたの精神史というか何というか、いずれそういう世間一般その他おおぜいのココロやキモチの来歴としては。

 全く当て推量で言うけど、彼の地本家のポスモってそういう自然科学的な下味がそもそもの下ごしらえとしてあったからソーカルの一件でバレたようなあり方示しとっただけで、本邦事案はその自然科学の部分が、あるいはそれも含めてのさらなる下味として文学(だか何だか)があった、ってことはないん?

 それこそあの「自然主義」についての本邦的壮大な誤解なり曲解にしても、そもそもの下味としての自然科学ってのがないところにうっかり翻訳して、だもんでそれまでの本邦なりの言葉やもの言いに対する信心の習い性のまま理解しようとした結果のワヤ、ってところあるような気はする。

 言葉にせよ文字にせよ、そういう広い意味での言語による表現・表象(このへん雑だがすまぬ)をどもならんほど縛っとるとにかくデカいもの(神なり思想なり文明の核心なり何なりそういうもの)のありようってのが本邦と彼の地とじゃ予想以上に違うとった、って事情はあるだろうし、な。「科学」でさえもそういう「文学」(と言うとくとりあえず)的理解の下味の上に賞味しようとしてきとったかもしれん、という。